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私の読書感想:11

同じ戦場にいてもこれだけ違っていた
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戦争書籍8:『弓兵団インパール戦記
◆井坂源嗣著 ◆昭和62年発行 ◆定価1,300円

この本のあとがきにこんなことが書いてあった。曰く「第2次大戦から40年を越す月日を経て、私も還暦を過ぎること数年の老兵となった。孫と共に暮す平和な日々の中で、時折『戦争の話を聞かせてよ、おじいちゃん』とせがまれることがある。私がまだ小学生時代の頃、日露戦争の様々な出来事を遠い昔のことと聞いた憶えがあった。日露戦争からさかのぼって30年前の物語である。私自身が体験した事実は既にそれから比べても10年以上も昔話となってしまった。日本の戦争・敗戦という未曾有の体験も40年、50年と時の流れとともに風化され、それに伴い平和の尊ささえも忘却の彼方へと押しやられるのではなかろうか。私が孫と同じ年頃の少年期に満州事変が勃発した。

当時、国民の3大義務の1つである徴兵制度があり、日本男子である以上兵役の義務を免れることはできなかった。国家に忠誠を誓い、男は身を捨てる覚悟は誰もが持っていた。時代の趨勢は市井の諸々の好むと好まざるとにかかわらず、戦争拡大の一途をたどっていき、そしてついに、米英豪仏蘭を加えた連合国軍を相手とする大平洋戦争へと突入したのである。この巨大な戦史の渦に巻き込まれ酷暑のビルマ平原に、人跡未踏のジャングルに、大河の流れに、次々に死屍をさらした多くの人々。インド・ビルマ戦線の戦没将兵の数は実に19万柱と言われ、インパール作戦だけでも6万余柱の犠牲を出した。いずれも私と同じ20歳代の青年が大半であった。

あの頃、我々は愛する家族のことを一途に思い、誰もが戦いに勝ちたかった。だが、英印軍と日本軍の武器の優劣は甚だしく、大人と子供のケンカにもひとしいものだった。日本軍の38式小銃は5発ごとに装填し、槓桿を引き、押して1発づつ発射するのに、英軍の小銃は10発装填で、引き鉄を引くだけで射撃が可能であった。敵の自動小銃は接近戦でさたに威力を発揮する。砲にいたっては余りにも数に差があり、戦車は装備砲、装甲、性能と、その差は歴然たるものであった。加えて、飛行機、弾薬、糧秣、車輌、兵員に至るまで物量の圧倒的な差はいかんともなしがたかった。戦局我に利あらず、兵隊達は食糧、医薬品の皆無に泣き、生への望みは至る所で絶たれた。

そして、傷病兵は最後の一瞬まで苦しみぬいた。戦友の遺骨を抱いてさがる傷病兵が敵の空爆、地上攻撃でさらに血を流し、雨中の歩行に肉体を消耗し路傍に倒れて白骨街道をつくっていった。両者とも名も知れぬ仏となるほかなかったのである。国家の命令のまま、死は鴻毛より軽し、と骨肉を飛散させ、病魔と飢餓に倒れふした戦友の死と涙を無にしないでほしい。若くして一生を国に捧げた兵士、そして嘆き悲しんだ妻や子、最愛の子を失った両親、血肉を分けた兄弟の憤怒を忘れてはならない。私は生き残った我々証言者が世を去る前に、あの悲しい洗浄の事実を正しく伝えるため今のうちに書く以外にないと思いたった。それが生きて祖国の土を踏んだ者の使命とも考えるようになったからである。これから後の世も我が愛する日本が永遠に平和な緑の島であると共に、笑いの絶えない心豊かな生活が続くことを切に願い、ビルマ奥地を今なお彷徨う英霊に対し、この書が墓標の慰霊の一巻ともなれば筆者の本懐とするところである」。本編を読まなくても、筆者の気持ちは充分伝わってくる。

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戦争書籍9:『ビルマ戦記
◆後 勝 著 ◆1996年発行 ◆定価2,000円

この本のあとがきにこんなことが書いてあった。曰く「私は昭和19年1月ビルマ方面軍に赴任しました。それから終戦までのビルマ作戦は文字通り激戦につぐ激戦の連続でした。当事私はビルマ方面軍の新任参謀としてビルマの戦場を駆け巡り、戦場至る所で見知らぬ将兵に助けられ、見に見えない天の導きにより奇跡的に生還と遂げました。これらの戦場では神にも通じる崇高な人間像にしばしば接し、深い感銘を受けたものでした。またその反面では平時では考えられないような浅ましい場面にも遭遇し、極限状態の下における戦場の人間像は、はっきりと両極に二分された世の中を見たものです。

戦後になって私は秘められたビルマ作戦の真相を広く後世に伝えることを、しばしば知友に勧められていましたが今や戦後46年を経て、馬齢すでに晩年を迎え当事の記録や記憶を基に痛恨の回想録を執筆することにしました。ところが、一旦筆を取ると現代史独特の難しさもあり執筆も遅々として進まなかったのですが幸いに前掲芳名録の方々から貴重な証言や資料を寄せられ、また内容の正確を期するため前掲の文献を参考として稿を終えることができました。ここにコレラの方々に対し厚く御礼申し上げますと共に、ひたすら祖国防衛の一念に燃え、勇戦奮闘してビルマの山野に散華された18万5千の英霊に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます」。

前書の著者は千葉県佐倉で召集され、トドのつまりはビルマでかろうじて終戦を迎えた。その時、彼は陸軍伍長であった。片や後書の著者は陸軍仕官学校卒業後、陸軍大学校への入校を許されたエリート中のエリート少佐。ビルマ方面軍参謀として実際の戦闘を指揮するのではなく戦争を実際に遂行する多数の部隊の指揮をとったバリバリの職業軍人。それぞれのあとがきを読めば、どちらがより苦渋をなめてきたのか、どちらが傍観者でありえたのか、が自ずと判ってくる。同じ戦場で戦ってきた者同士でもこの差は大きく深い。
# by TOMHANA190 | 2005-12-21 16:47