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私の読書感想:21

道の途中でいろんなことが起きるのが参勤交代
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江戸時代、参勤交代を行なう大名や武士達が
どういう感覚でこの幕府本位な制度に従っていたのか。
参勤交代から江戸時代の人々の様々な特質が見えてくる気がする。

《道中異変:1》
1720年5月8日、備中新見藩主関長治(1万8千石)が帰国する途上、
駿河江尻において、家来の徒士小川三郎兵衛と延原伊兵次が喧嘩をして、
互いに刀を抜き、延原は即死、小川は取り鎮められるという事件が起った。
この時、仲裁に当たった井村十郎次という者も手傷を負った。

このため、江尻宿の本陣と町方役人が寄り合い、代官所まで注進に及んだ。
さっそく代官所からは手代2人が出張してきた。
新見藩の目付役と徒小頭とが立合って吟味したところ、
喧嘩に相違ないということになった。

さて、小川と井村から供述書をとった結果、
小川は同宿妙通寺において切腹を命じられた。
井村には同所の外科医野沢養益が招かれて治療を施した。
藩士同士の喧嘩だけなら、これで万事が終わった。
しかし、井村の傷は案外に重く、江戸屋敷に戻して療養させる必要があった。
その為には箱根の関所を越えるための手判がいる。

代官所の手代にその件を打診すると、前例のないことだから自分達には権限もなく、
江戸に報告して幕府留守居発行の手判を入手してほしいという。
しかたなく関長治は道中から御用番(月番老中)の
水野和泉守と道中奉行に届けを提出した。

一方、藩主の指示を受けた新見藩の江戸留守居役は
わざわざ幕府留守居を訪問して箱根関所の手判を申請したが、
幕府留守居は箱根を越えて江戸に引き返すことには難色を示した。
しかたなく領地まで行くことにしたが、それには今切の関所の手判が必要になる。
ケガ人の関所通行はなかなか難しかったのである。

再度申請の結果、5月20日になって手判ができ、
幕府留守居全員の署名も25日には揃うという。
お役所仕事とはいえ、手続きに果てしない時間がかかる。
もちろん、関長治は国許に向かっており、井村は江尻で療養を続けていた。
一時は少し回復し、気力も付いてきたのだが5月23日、突然落命してしまった。
江戸屋敷ではこの知らせを受け、直ちに幕府留守居に報告し、
発行済の手判の消印の手続きをとってもらった。

この事件で新見藩は本陣と相談して、とりあえず宿場へ金2両2分払っていたが、
その後、井村の養生などもあったので、都合金5両を支払った。
医師へは礼金として金3両、妙通寺へは金5分と小川の衣類と腰物を遣わした。
幕府役人の手を煩わせた上、10両近くの金が掛かった訳である。
おそらく事件によって帰国の予定は大幅に狂ったであろうから、
小藩としてはかなりの痛手であったに違いない。

歴史書籍07:漆の実のみのる国 上下
◆藤沢周平著 ◆2000年発行 ◆文春文庫新書 ◆定価476円

私の読書感想:21_e0041354_844426.jpg元来120万石もあった上杉家は1601年、会津から米沢30万石に減知・転封された。更に1664年、藩主急逝の際に半分の15万石になった。戦国大名の気概を守るというば聞こえがいいが、領地は1/8になったのに軍縮路線には踏み込めず、家臣の召し放ちを行なわなかったのは2度倒産した会社が倒産前の社員を全員雇用しているようなもの。人件費過剰による財政悪化は当然の帰結だった。

江戸初期における封建制の理想は名君や賢臣が思い描いた仁政であった。それはすなわち天道にのっとった朱子学的秩序の確立、そして自給経済の停滞的安定である。しかし、非生産的寄生階層となった武士を多数養わなければならなかった米沢藩は武士という存在そのものが停滞的安定への道を阻んだ。上杉鷹山の改革は2期に分けられるが、いずれも成功というには程遠いものでしかなかった。

1878年、単身地図もない東北地方を旅行した46歳の果敢な英国婦人イザベラ・バードは新潟から山越えの長い辛苦の旅の果てに米沢盆地にたどり着いた。そして米沢盆地の細やかに整然たる農地のありように驚嘆した彼女はそこを「日本のアルカディア」と呼んだ。それは上杉鷹山の苦闘の跡というよりは、農民達のたゆまぬ努力の成果とでもいうべきものであった。

本書は藤沢周平が最後に書き上げた遺稿でもある。
by tomhana190 | 2006-06-06 08:06


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