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私の読書感想:15

江戸時代の光と影、それは参勤交代

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《エピローグ》
1860年3月3日、大雪の積もる江戸城桜田門外で1発の銃声が響いた。
水戸藩の脱藩士17名と薩摩藩士1名からなる集団が時の大老、
井伊直弼の登城行列を襲撃したのであった。
その頃、遠州掛川藩士で江戸屋敷に詰めていた渡辺嘉彰という武士が
日記に次のように記している。

今朝8時過ぎ、外桜田の薩摩藩島津家と米沢上杉家の辻番所の間から
狼藉者がおよそ20人ほど徒党を組み、どなたかの御駕篭を目当てに斬り込み、
鉄砲を撃ちかけ、刀にて斬りあった。狼藉者は皆白木綿の鉢巻をして、
たすきをかけ、小袴を着用して襲撃した。
大雪が積もっている中で、このような事件は古今に珍しいことである。

掛川藩前藩主太田資始は1837年、38歳の若さで老中になったが、
水野忠邦と対立して引退し、家督も息子の資功に譲った。
1858年には間部詮勝と松平乗全とともに再び老中に就任し、
外国御用掛に任命された。
しかし、井伊大老が徳川斉昭や松平慶永を蟄居処分にしたことにより大老と対立、
1859年7月15日、江戸城で井伊大老と激しく論議を交わし、
17日から病気を理由に登城しなくなった。
24日には国論の統一などを求めた申立書を提出したが、
8月28日には謹慎を命じられた。

はたまた井伊直弼が襲撃された年の5月、紀州から江戸に出てきた紀州藩下級武士、
酒井伴四郎という者の日記が残っている。
伴四郎は知行30石の下級武士、紀州藩大番組のうち駿河組に属していた。
そんな彼の江戸に来る楽しみは何といっても江戸見物だった。
その頃、掛川藩の武士達は剣道や弓道などの稽古に出精していたが、
伴四郎はそんな無粋なものはやっていない。
その代わりに三味線の稽古に足繁く通っていた。
このように将軍家茂を出した紀州藩の下級武士と、藩主が元老中で激動の政局に
翻弄される譜代の掛川藩の陪臣とでは置かれた状況に随分差があるが、
このように様々な田舎侍が江戸に出て生活するのが、
江戸時代を特徴づける参勤交代であった。

1630年頃、約15万人ほどだった江戸町方人口は1690年代には約35万人、
18世紀前半には50万人を越えた。それに武家人口50万人を加えれば
江戸はまさに百万都市という前近代社会では世界でも珍しい大都市になった。
日本中の大名が江戸に集ることによって、政治的にも文化的にも江戸が中心になった。
大名・旗本などの上流階級の交流が活発になり、巨大な消費都市ともなった。
しかし、これは江戸一極集中をもたらしただけではない。
隔年に江戸と領地を往復する大名行列は5街道その他の街道を通行した。
これによって日本国内の多くの地域に定期的に人が通行し、街道が発達し、
それに伴ってお金も情報も流通した。
参勤交代があったからこそ、現在では過疎地となっている地域にも貨幣がもたらされ、
いい意味でも悪い意味でも文化の均質化が促進された。
浮世絵があれほど広まったのも、参勤交代で江戸に来た武士達が
国許への土産として買い求めたからである。

また、参勤交代は藩政の主体であった藩主を江戸の儀礼の社会に組込み、
国許へは1年おきにしか帰れない状況を生み出した。
これによって、必然的に藩主を藩政から遠避ける結果を招いた。
藩主は江戸城を中心とする江戸の政治社会の中に組込まれ、
儀礼と交際の世界で生きることとなった。
本来なら一生田舎で過ごすはずの藩士達も参勤交代のお供をすることによって、
江戸での生活を経験し、視野を広めていった。
武士達の婚姻圏は江戸時代初期から藩を越えて広がっていった。
このように、参勤交代は江戸時代の政治と社会に様々な影響を及ぼしたのだ。


歴史書籍01:江戸藩邸物語
◆氏家幹人著 ◆1988年発行 ◆中公新書社 ◆定価640円

私の読書感想:15_e0041354_792034.jpg「戦乱の終焉とともに泰平の世を迎えた江戸時代、武士社会には秩序と作法の整備を求める改革の波が押し寄せた。ことに、なにかと幕府の干渉を受ける江戸藩邸ではいらぬ争いや摩擦を避けるために遅刻・欠勤の規約、水撒きの作法など些細なまでの約束事が定められた。しかし、時代は変っても武士は武士、体面もあれば意地もある。場所を戦場から江戸の街角に写して起る悲喜劇に、変革期に揺れ動く武士の姿を見る」とブックカバーには印してあった。

その中の「一発即発の路上」では、こんなことが書かれていた。「幕府御小姓組岡八郎兵衛が江戸の芝土器町辺りを歩いていると、横から伊達美作守の行列が行き当たった。双方しばらくやり取りがあった後、美作守の家来は八郎兵衛を手で突き、彼の片足を溝の中に落としてしまった。「寛政重修諸家譜」の記述で補えば、9月9日、八郎兵衛は当番で出仕する途中に美作守の行列に道を遮られ、遅刻するんじゃないかとやきもきしていたらしい。待切れず行列を横切ったところ、美作守の供の者に咎められ刀傷沙汰になったが、数人に折り重なるように捕らえられ、帯刀を奪われたという。

美作守の行列が通り過ぎた後、いたたまれない気持ちで一杯の八郎兵衛は同僚に切紙を廻して、不慮の事故で出仕ができない旨を知らせてから、鎗を引っさげて美作守の門前に押し掛け面会を要求した。ことはついに若年寄り加藤越中守の詮議となり、美作守の家来3人が成敗、美作守本人は「くたびれて駕篭に熟睡して知れず」と知らんぷりを決めたが短期間の逼塞は免れなかった。一方、八郎兵衛も性急な行動が咎められ、小普請に落とされて一件落着となった」とある。何とも物騒な毎日であったようだ。
by tomhana190 | 2006-05-25 07:11


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