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名古屋巡礼記:62

建中寺界隈を巡礼する/前編

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名古屋市では第2次世界大戦の戦災(全部米軍による空襲)などで
多くの歴史的建造物を失ったため、今残っているものはそんなに多くない。
そんな中、名古屋市では計61件(現在の指定物件は59件)の物件を
都市景観において重要な建築物・工作物・樹木等として指定しているという。
何故だか知らないが「建中寺」もそんな指定を受けている。
そもそも建中寺とはいかなる寺院か?
答えは1651年、尾張徳川家2代藩主光友が藩祖義直を弔うために創建した寺院であり、
以来、尾張徳川家代々の菩提寺ともなっている。
総門や山門は創建当時のものが残っているし、1787年に再建された本堂は
名古屋市内に現存する木造建築物では最大の大きさだといわれている。
(写真はちょっと離れたところにある建中寺の総門)
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江戸末期の地図「名古屋城下図」にあった建中寺界隈。

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建中寺の境内は今でも広くて、HPによると歴代藩主の霊廟もここにあるとのこと。
だがホントの意味で埋葬されていた場所(霊廟はあくまで印しだけ)は
今の建中寺の北側に隣接している市立あずま中学校の敷地内にあったという。
それというのも、江戸時代の建中寺の敷地は総門から判るように今の何倍もあって、
あずま中学校も建中寺の墓所の一部で、その証拠に江戸時代の面影を残す石垣や
松が今でも残こっている。あずま中学校の敷地内に葬られていた人は次の通り。
●泰心院殿:3代綱誠●円覚院殿:4代吉通●真厳院殿:5代五郎太
●昇善院殿:6代継友●泉光院殿:6代継友実母、和泉ノ方●章善院殿:7代宗春
●宣揚院殿:7代宗春の実母、梅津●轉陵院殿:9代宗睦室
●賢明院殿:14・17代慶勝の5男、時千代など
(写真はパッと見、正門と間違える建中寺山門)
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尾張徳川家の威容を示す山門に付けられた葵の御紋。

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こう見えて私、誰もが認める歴史好き、江戸物好きなのだが、
今だかつて一度も建中寺の境内に足を踏み入れたことがないという奇特な人物でもある。
(ということは今回初めての訪問ということになる)
というのも徳川、徳川と言ったところでたかが三河の田舎侍の末裔ではないか。
それに私自身は徳川家康本人を見たことはないものの、
西田敏行みたいなデブデブ太った俳優がやっているから本人もたぶん太っていたんだろう。
あの時代に肥満とは、武士にもあるまじきよからぬことをやっていなければ
ああはブクブク太らならない筈。そんな人に自慢できないようなスネに傷持つ男が
ひょんなことから天下を取って大きくノシアガッタだけの話。
純粋無垢で故郷愛知をこよなく愛する私としては
王道はやっぱり織田信長から豊臣秀吉路線であって徳川家康は論外、場違いなんだ。
(写真は建中寺御成門)
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名古屋市内最大の木造建築といわれている建中寺本堂。

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しかし、尾張家代々の菩提寺であった建中寺の当時の権勢を体現するかのように
創建当時からの総門と現在の正門みたいな山門との間は有に100m以上も離れている。
それくらいこの寺はバカが付くほどデカかったのだ。
案の定、寺が藩から貰っていた禄高は何と万松寺と同じで名古屋イチの500石。
それを裏付けるかのように山門にデカデカとこれ見よがしに付いた
金色に輝いた葵の御紋を見ると「何と下品なヤツ等なんだ」と思うと同時に
あのワンパターンで人畜無害なオッサン水戸黄門をつい思い出して笑ってしまう。
やっぱり応援するなら肌に合った信長、秀吉の方がいいに決まっている。
ということで、今回のメインイベントの建中寺は初めての巡礼であったが
そこはそこ、一通りさっと見て次の目的地へと向かうことにした。
(写真は建中寺鐘楼)
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何でも最近保存修理が済んだという経蔵。

続きは次回のお楽しみなのだ。
by tomhana190 | 2006-04-29 09:06


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