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歴史のオマケ:43

石像物/1

石像で検索すると「石仏の森」というHPにヒットした。
何気なく開けてみると、そこにはこんなウソのようなホントの話が載っていた。

「今回は久々に心底ビックリしました。紅葉で有名な神通峡の近くに石像が
たくさんあると聞き、行ってみた。国道から一本入った道を車で走る事数キロ、
大沢の石仏の森という板碑が見えて来た。まずはその規模にビックリ仰天!
小さなダム湖を望む傾斜地に五百羅漢の石像がズラズラズラ〜っと並んでいる。
石仏の森って森の中に石仏があるんじゃなくて石仏が森のようにあるってゆー意味なのね。
ちなみにこの板碑の裏側には物凄くでかい字で一蓮托生と刻まれてました。
俺も羅漢さんの仲間入りって事ですか? いいんですかあ〜、へっへっへっ・・・

石像の大きさは等身大かチョット大きめ位か。羅漢の石像といえば
精々1メートル程度のものが多いが、等身大以上の五百羅漢はさすがに迫力がある。
しかもこの規模。メガトン級といってイイでしょう。最近つくられたと思しき羅漢さん。
お腹の中から顔が覗いている位ならよくあるのだが・・・ 生首を掲げる羅漢像っていうのは
如何なモンでしょうか・・・ 髭も髪もカッコ良過ぎますね。ここは別にお寺があるわけでもない。
場所柄、近在の人が来てお参りをする風でもなく、お賽銭があげられている訳でもなく
線香があがっている訳でもない。そう、まさに「石仏の森」の名の通り、
参拝者が来る来ないに関わらず羅漢像がそこにいる、というだけの場所なのかもしれない。
どっちかというと石仏の原生林ですね。出来た時点で遺跡の風格。見事です。

この石仏の森には羅漢像の他にも幾つか仏像が並んでいる。
その端に何故かスーツ姿の男性の石像が立っている。今思えばこの後の展開を
大いに暗示しまくっているのだが・・・境内(?)の一画には休憩所があり、
案の定、閉鎖されていた(オフシーズン、ということらしい)が、その近くにこの石像の森に
関する簡単な説明が紙に書かれて貼ってあった。それによると・・・ 何と!
この先にもまだふれあい石像の里なるものがあるそうな!そりゃ行かねば。急げ!急げ!
・・・というわけで五百羅漢からさらにダム湖を遡る事、数分後。
ふれあい石像の里である。目の前にはこんな光景が広がっていた・・・
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証拠の写真を1枚だけ拝借しちゃいました。ゴメンナサイ。

しばし唖然、呆然、そして驚愕。先程の五百羅漢群よりさらにスケールアップした石像群が
ズラズラズラズラズラズラ〜っと並んでいる。し・か・も・・・えええ〜っ!
せっ、石仏じゃねえええええ〜!!!!!! この人達は一体誰なんだ〜〜なんだ〜
なんだあああああ〜!!!!!(5分間気絶)誰が何時どのように何故どうやって
この風景をつくりあげたのだ! いや、誰とか何時とかそんな事はこの際どうでもいい。
なんでコレを作ったんだ!!この謎の座像の大群、改めて見てもやっぱ普通の人物像である。
そりゃ、人物の座像ぐらい、例えば学校とか会社の庭なんかにいけば
そんなに珍しいモンじゃあないですよ。でも・・・これだけ大量にあるという事は
その特定の人物を顕彰してとかそういう類いのものではないのだろう。

・・・ということはコレ、お墓?いや、お墓にも見えないが。何かの供養?
そういえば台座にそれぞれ名前が彫ってあるぞ。供養の像だとしたら
それはそれで凄すぎるぞ! 数多くの疑問を残しつつとりあえず先に進もう。
像はすべて大理石製である。従って新しいものは真っ白で奇麗だが、
設置されて数年経過したと思われるものは黒ずんでいて、より一層不思議さが
パワーアップしているようにみえる。先程の石仏の森がメガトン級ならこちらはギガトン級です。
子供2題。う〜ん、ホントに供養の像なのだろうか・・・花とか線香とか手向けられた
様子はないけど・・・とりあえず手だけ合わせておくか・・・こちらの左の御仁はズラ?

こちらのお方は未開封。恐らく台湾か中国あたりでつくられたのだろう。
このように檻に入ったようなお方が何人かいました。早く出してあげなきゃでしょう。
一画にはこれまた羅漢像とひと回り大きい仏さんがいるが、むしろこちらの方が
普通に見えて来ました。後日、調べてみるとこの石像群、とある社長さんが
その知人友人恩人社員などを感謝の意を込めて石像にしたためたらしい。
つまり個人の友達博物館って事ですね。物凄い感謝の意ですな。
さぞ石像にされた方々も草葉の陰でお喜びになられている事でしょう・・・
あっ!今も生きてる人って事か・・・スミマセン、拝んじゃいました!

追記:今回、情報をいただいた伊藤さんによるとこの石像の里の座像は
確実に増えているらしい。そういえば入口近くの赤御影石の台座に乗っている座像は
新しいもののようだ。つまり今後もこの座像は増え続けると考えられる。
この先、どうなっちゃうんでしょう? ありがたや、おそろしや。」とのこと。

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写真1
ここにある月待供養碑は1596年・1630年・1639年の銘のある3基の石塔。
1639年のものは庚申待ちの供養も兼ねている。
これらは民間信仰を知るうえでの貴重な遺産となっている。
(中区観聴寺
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写真2
この「奉納」という字が刻まれた石碑は仰々しい日泰寺の正門の外にある。
ナントも達筆で、味わいのある字だ。
これの本来の目的は判らないが歴史の生き証人には間違いない。
(千種区日泰寺
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写真3
「天保四年」という、まさしく江戸時代の年号が刻まれている灯籠。
私が見つけた中では一番古いもの。
よく見ると、ちょっと傾いたところがこれまた愛らしい。
(中区若宮八幡宮
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写真4
別の神社でも大きくて古そうな灯籠を見つけた。
しかし、いつ奉納したかは判らなかった。
こういう使われなくなった灯籠はこれからどうするんだろう。
(瑞穂区津賀田神社
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写真5
この村社という石碑が堤防の土手に立っていた。
本殿は階段を下ってしばらく行くと現われる。
秋の陽を浴びて、何か誇らしそうだった。
(西区五所社神社
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写真6
稲荷神社に最近一目見て同じようなノボリが立っている。
何処かの手のものの差し金だと思っていたら、元は古くからあったようだ。
古そうな手水鉢の横に彫ってあった。
(中区連理稲荷
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写真7
東別院の境内の中にあくまで目立たぬように立っていた。
「古渡城址」という石碑だった。ここにかつて信長の親爺が城を建てたという。
今ではその存在を知る人もほとんどいなくなった。
(中区東別院
by tomhana190 | 2006-04-01 09:50


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