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歴史のオマケ:38

遥拝所/1

「遥拝」という項目でHPを検索したらこんなのが出てきた。
種田山頭火が書き残した「四国遍路日記」というもの。こんな感じで綴られていた。

11月10日 晴、朝寒、行程八里、高知山西。
よう降った。夜明けまで降りつづいたが朝はからりと晴れわたって星がさえざえと光っていた。
助かったと思う。幸福々々(宿もよかった、ほとんど申分なかった)。
七時出立、松原がよろしい。お弁当の重いのもうれしかった。赤岡町まで二里半、
途中行乞(功徳は銭7銭米6合)。午後はひたすら高知へ強行した。
申訳ないけれど第28番、第29番は遥拝で許していただく、
風が出て来たがほどなく凪いで、のどかな小春日和になった。
御免からは路面舗装、身も心も軽い。思いかけなく電車から降りた母子の方から
10銭玉を頂戴した(この10銭が私を野宿から助けてくれた!)。

いそいだけれど暮れて高知着。まず郵便局で郵便物を受取った。
いろいろ受取ったけれど期待したものはなかった。がっかりした。お札所横の山西屋に泊る。
名を売っているだけ客扱もよく客人も多い。おいしい御飯をたべ風呂に入って、ぐったり寝た。
アルコールなし。米八合渡して(内五合は飯米)不足金二十銭払った。

(夕食)焼魚、菜葉ひたし、沢庵漬、さしみ、蓮の煮付、漬物
(朝食)味噌汁二杯、削節、たくあん二片、味噌汁二椀、菜葉の煮たの、漬物

金がある時は金のない時を考えないけれど、金のない時は金のある時を考える。
……私たちのようなものの痛いところだ。かけだし夫婦はすぐ解る!と宿の人々がいう。
なるほど、そうだで。

◎11月10日
墓地はしづかな おべんたうを ひらく
梅干 あざやかな 飯粒ひかる
◎行乞即事
あなもたいなや お手手のお米 こぼれます
まぶしくも わが入る山に 日も入つた
◎高知城
お城晴れ わたる蔦 紅葉
銅像 おごそか落つる 葉もなく
◎土佐路所見
重荷おもけど 人がひく 犬がひく

こんな感じ。山口県防府市に生まれた山頭火。
妻子を捨て、世間を捨て、こじきの人生を送り、自然と一体になり、自己に偽わらず、
自由に一筋の道を詠い続けた彼は生涯約84000句を詠み捨てた。
放浪の俳人種田山頭火は昭和14年10月松山にやって来た。
松山の生んだ俳人野村朱燐洞を思慕し、彼の墓参りを終えた彼はその足で
四国遍路に旅立った。12月念願の四国遍路を果たした彼は高橋一洵が見つけた
御幸寺山麓、御幸寺境内の空家に落ち着く。昭和15年10月11日未明、
念願のころり往生を遂げた。享年59歳。彼の人生を他人がどう見ようが、どう思おうが、
お構いなしにスタスタと通り過ぎてゆく彼がいる。

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写真1
西区で見つけた4隅に小柱のある遥拝所には
同じ形式というか同じ意識のもと作られたという感じがする。
これは境内の東面の陽当たりのいいところにあった。
(西区八幡神社
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写真2
皇居のある東面に向かって立っているので
一応位置的にはそういうものかもしれないけれど、
何でもない普通の民家に向かって遥拝するのも何か間が抜けている。
(東区七尾天神社
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写真3
西区庄内通で見つけた神社にはお揃いの遥拝所がある。
単に「遥拝所」とあるが、当然皇居に向かってのそれである。
ここらの人はひょっとして勤王意識が強いのかもしれない。
(西区掘越白山神社
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写真4
ここにある遥拝所は西の方向に向けて立っていた。
ということはここのは皇居ではなく何故か橿原神宮に向けてのもの。
ところで橿原神宮にわざわざ遥拝するような何かがあるのだろうか。
(西区上宿山神社
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写真5
おっちら歩いてきてやっと見つけた神社にもまたコレがあった。
遥拝所といってもそ、これは拝む実体の方向を示すサインでしかないし、
少々食傷ぎみのきらいもあったが知らん顔もできないし…。
(西区名塚白山神社
by tomhana190 | 2006-02-27 15:26


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