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歴史のオマケ:37

お堂/3

江戸の物知り:1 「八丁堀の旦那」といえば、町奉行所の与力や同心のこと。
時代小説好きにはお馴染みだが、彼等がそう呼ばれたのは訳があった。
それは彼等が八丁堀(中央区に実存)の組屋敷に住んでいたからという
ゴクゴク普通の理由から。町奉行所は江戸庶民に係わる行政や司法、警察を担当する
機関で南と北の2つがあった。そこに所属していたのはそれぞれ与力が25騎、同心は120人。

与力の人数に「騎」を用いたのは戦時の時、彼等が馬に乗ることを許された身分だったから。
その点同心は与力の下に付く御徒で、身分的には単なる足軽だった。
与力の仕事は奉行所に詰めて裁判記録を調べたり、容疑者の犯罪事実を詮議し、
自供させたりするのが主な職務。今の刑事ドラマのように犯罪捜査をするのは
主に同心の役割だった。むろん、同心といってもいろいろな同心がいた。

犯罪の捜査や犯人の逮捕にあたる定廻(じょうまわり)が10人。
定廻を補佐する臨時廻が6人。常に変装して市中を巡回する密偵役の隠密廻が2人。
合わせて18人で、これを三廻といった。ということで同心の中でも実際の捕り物に携わる者は
南北合わせても38人しかいなかった。ただし、南北の他に中町奉行所があった時代もあるし、
奉行の直属の家来が加わることもあった。

しかし、江戸中期に江戸に住む庶民は5〜60万人もいた。
それにも係わらず、警察力が36人では江戸市中の全体に目が届くはずもなかった。
それを補ったのが「銭形平次」の岡っ引(目明かし)で、江戸市中には町々に
2〜300人ほどいた。さらに岡っ引の子分(下っ引)が3〜400人、
合わせて5〜700人程度が日夜同心の捜査を助けていた。

彼等はいかにも奉行所の一員に見えるが、そうではない。
彼等は同心に私的に使われている小者で、給料といっても同心が自分の懐から出す
小遣い程度の金を貰うだけ。そんなことで当然岡っ引は同心から貰う金だけでは
暮していけない。そこで、捕物帳でお馴染みの料理屋や茶屋、絵双紙屋を兼業したり、
髪結いの亭主に納まった者もいたということになる。

「二足の草鞋をはく」という言葉があるように、中には岡っ引を勤めながら
秘かに博打を開帳して寺銭を稼ぐ者もいた。さらに事件を嗅ぎ付けてゆすったり、
たかっりする悪党もいたようだ。役人の数は少なかったが、犯罪もそれほど
多発した訳ではなかった。それに江戸市中には町人地には自身番と木戸番、
武家地には辻番などの自警組織があったので治安の面では行き届いていたようだ。

肝心の俸禄だが、与力はだいたい200石程度貰っていたのに、同心は幕臣の中では
最低クラスの30俵2人扶持だったから暮らしは楽ではなかった。
そこで同心は屋敷の一部を家賃を取って町人に貸したりして暮らしの足しにした。
しかし、下級武士とはいえ、あくまで幕臣だから誇りもあるし
誰にでも貸せるという訳でもない。相手を選んで医者や儒者などに貸していた。

当時、与力のように200石取りでは殿様と呼ばれるのが普通だったが、
与力は御目見得以下の身分。ということは幕臣といえども直に将軍の前には立てなかった。
辛い立場の「殿様」は庶民との垣根を取り払うために、わざと「旦那」と呼ばせたという。
当然、同心も旦那。これに対して与力や同心の妻達は何故か「奥様」と呼ばれていた。

それというのも、一般の武士邸では来訪者があった時でも、妻が応対のために
玄関に出るということはなかった。しかし与力邸だけは妻が直に玄関に出て対応したため、
庶民から尊敬され自然に奥様と呼ばれるようになったという。
ところで、江戸時代には付け届けや賄賂が盛んに行なわれていた。
諸藩の留守居役は幕閣をはじめ与力や同心にまで付け届けをしたほど。

それというのも自藩の藩士が江戸で何かの事件を起こした場合、
藩の体面を汚すことにもなりかねない。そんな時、何とか穏便に済ましてほしいという
気持ちから付け届けを怠らなかったという。こうして諸藩の留守居役が与力の自宅にも
付け届けを持参し、挨拶に出向いたという。こうした場合でも与力の妻は対応のため
玄関に出て留守居役の挨拶を受けたという。

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写真1
緑が鬱蒼と生い茂る境内の片隅に壊れかけたお堂があった。
昼間でも暗くて気持ちが悪い。しかし、こんなとこにもお参りに来る信者はいる。
(南区長楽寺
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写真2
本堂の裏手、信者でもあまり入ってこないところにこのお堂はある。
立派ではないが人々から長く守られてきたお堂だということは判る。
(東区高岳院
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写真3
金さん銀さんみたいな2体の石仏が話し相手になりそうな信者が来ないかと
じっと一点を見つめてひたすら待っているようだった。
(中区万松寺
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写真4
寺の気配すらないなんでもないところにこのお堂はあった。
味気ないサマではあったが、こういうのが意外とシタタカなんだ。
(北区志賀町界隈
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写真5
回りにたくさんの石仏達を従えて、町営の駐車場の片隅にこのお堂はあった。
廃れているのか栄えているのかよく判らなかった。
(滋賀県多賀大社界隈
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写真6
歩道の脇に何でもないこういうお堂がある街は何かほっとする。
近所で取ってきた花や柿が添えられて人の息吹が感じられる。
(昭和区広路通界隈
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写真7
これも何でもない道端に建っていた。台の代わりにブロックを置いて、
ちょっと窮屈な感じが手製のお堂のようでナントも微笑ましい。
(北区山田東町界隈
by tomhana190 | 2006-02-27 15:22


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