旗屋町の農民、長四郎の娘「きの」。幼くして両親と死別し、医者や尾張藩士のもとへ 奉公に出る。途中結婚したが夫の身持ちの悪さ(今の言葉で浮気)で離婚。 1759年に自立し農家と小商いを始める。そんな彼女が1802年に突然あらぬことを 口走り始めた。彼女曰く「釈迦の教えは至上尊の霊示の60%にすぎない。 私の教えは残り40%である」と言ったという。その後、無学文盲の彼女の説教を 信徒になった尾張藩の祐筆らが速記したものが約300種も残っているという。 それは全編当時の名古屋弁で綴られ「お経様」と呼ばれるもの。きのは終生有髪で通し、 1826年没し火葬に付された。その後も彼女の意志を継いで布教活動が続けられた。 尾張藩の厳しい弾圧にもめげず活動は続けられ、大正初期には全国に80有余の 末寺庵を設けるに至った。戦後、宗教法人法の公布に伴って立宗し、如来宗を標榜し、 本山をココ熱田区旗屋町にある登和山「青大悲寺」に置いた。 大和の農婦「中山みき」が天理教を、京都の「出口なお」が大本教を、備中の農民 「川手文次郎」が金光教を創唱するよりも早く、熱田宿の名もない老娘が新興宗教を創唱し、 立派な宗教法人になったことは地元名古屋の人々にも余り知られていない。 「御主、タダモノではないな」という気にさせた青大悲寺。 という訳で私がココに来たのも今回が初めて。この青大悲寺というお寺、 交通量の多い国道19号線に面し、後ろには熱田球場もあったりして、一応1等地に建っている。 がしかし、どう見ても寺には見えてこない。それは大きな敷地に比べて余りにも門が小さくて、 しかも隅の方にポツンとあるから戦前に堀川で財を為した成り金の家かな、と見間違いそう。 その門も案の定、開かずの門。これでは庶民派の教祖様が浮かばれない。 ココが寺だと判るのは長い塀の中程に小さな地蔵堂があるから。その中には鉄地蔵菩薩という 室町時代に鋳造されたお地蔵さんが祀ってある。これは一応、愛知県の指定遺跡だという。 思い直してこの寺のすぐ南に「寿琳寺」という別の寺がある。早速行ってみるがしかし、 ここも開かずの門。2つ続けてこういう風にされると思いっきり嫌〜な気分になってしまう。 要はディスプレイのようなもんだ。 熱田神宮公園の中には日本武尊の妃宮簀姫(みやずひめ)の墓と伝えられる 「断夫山古墳」がある。今は水のない堀に囲まれた鬱蒼と木が茂った全長151m、 高さ16mの小山。現在は石垣で組まれた周濠だけだが、以前はより幅広い濠が巡らされ、 そして古墳周辺部には円筒埴輪も置かれていたようである。 日本最大の古墳である伝「仁徳天皇陵」は全長486m、高さ35mもあるから、 それに比べれば1/3ほどの大きさしかないが、ココは東海地方最大の前方後円墳だという。 実際にはこの地方の豪族・尾張氏の墓だと考えられている。ところで、私は前々から 日本にある古墳はなんて不遇なんだと思ってきた。というのも、例えばその古墳が 誰かの天皇の古墳だと江戸時代からのそれこそ伝聞があるだけで学者といえども 出入り禁止。発掘どころか中に入って学術的に比定者かどうかの調査をすることもできない。 外からミ・テ・ル・ダ・ケ。その反対に天皇の古墳ではないと判ると 歴史的価値がないかのように標識1枚掲げられただけで断夫山古墳みたいに 無造作にホ・ッ・タ・ラ・カ・シにされている。長い歴史を誇る我が国のこれが現実なんだな。 鬱蒼と木が茂って感じがいいと思うのは素人の浅はかさ。 できた時はこんな木は1本もなくて埴輪が取り囲んでいた。 熱田神宮公園を散策するも見るべきものがないので「熱田記念橋」を渡って 名古屋国際会議場とセンチュリーホールまで足を伸ばすことにした。 この辺りの堀川は川幅も広くて立派だった。しかし、相変わらず川は濁っている。 前に綺麗になったという話を何度も聞かされていたけど事実はそれほどでもない ということか。何年前かのデザイン博の仕事もしたというのに私ココへは今回初めて来た。 余りの大きさに驚くと同時に「こんなもん作って、どうする気なんだ」という 現実的なリアクションも自然に胸に湧いてきた。見るとこあるようでないのがココ。 しょうがないので中に入って行くと、とてつもなく大きな白い像が見えてきた。 よく見るとどう見ても場違いな西洋の騎士像であった。何故こんなもんがココにあるのか。 それにこんなに大きなものが。訳が判らん、どうでもいいけど「担当者出てこい!」 と怒りの鉾先を単なる弱いヤツ等に向けざろう得なかった。 開いた口が塞がらなかったてばよう。 西高蔵の交差点を東に300m程行くと「高座(たかくら)結御子神社」がある。 通称高蔵神社と言われ、熱田神宮の12摂社のひとつである。 この神社の創建は835年とされ、尾張氏の祖先である高倉下命(たかくらじのみこと)を お祀りしているという。高蔵・高倉・高座はすべて訓読みで「たかくら」と読めるが クラはもともと谷・ガケを意味する古語で、これらの地名は深い谷や絶壁、 それから転じて絶壁のある山などの名になっている。もしくは神の降臨する 岩の意味合いがあり、古代信仰の形である磐座(いわくら)とも係わり合いが あるのかもしれない。要はココらは尊い土地柄だということ。ココでは特に子育ての神、 子供を守る神としての信仰が厚く、4月2・3日の幼児成育祈願祭、 6月1日の例祭には多くの人々が子供を連れて参詣に集まるという。 また、境内にある御井社(みいしゃ)の井戸を覗くとカンシャクの虫封じになると信じられ、 俗に「高座の井戸のぞき」といって夏の土用の入の日に参拝する人が多く、 全国に広く知られているという。境内にはその他7本もの市指定の保存樹があり、 楠などの巨木の雄大な姿を楽しむこともできる。 UFOが降りてきそうな、そんな神秘的な場所だった。 ◆高蔵貝塚・古墳群跡:貝塚は弥生後期のもので、明治末期の大津通の道路拡張工事の時、金山から高蔵に至る広範な地域で発見された。前期以降の弥生土器として円窓付き土器や丹彩の華麗な、いわゆるパレススタイル(宮廷様式)の土器が発掘された。他にも彫刻のある馬骨や歯などが発掘され、古代の馬の存在について参考になる考古学研究上貴重な貝塚としても有名。また、ここで出土された土器は重要文化財として東京国立博物館に所蔵されている。古墳群は15m級の古墳が4基もあり高座結御子神社の境内とその周辺に散在していた。そのうちの1基は横穴式石室で川原の丸石で積みあげられ、高杯・五体の人骨・金環・直刀などが出土したが今では児童遊園地に変わり、その面影を留めていない。(写真はココで発掘されたパレススタイルの土器) 地下鉄の2番出口を出て北の方へ行くとひときわ緑の濃い場所に着く。ここが「雲心寺」だ。 木々の生い茂る参道を30m程行くと立派な鐘楼門(2階に鐘楼を備えた門)を くぐることになる。「おやっ、ここはいいかも」と思いつつ、境内にある小さな噴水のある 「心」字形の放生池を見て進むと庫裏や本堂に行けるはずなんだが、 敷地内の高蔵幼児園が邪魔してそこまでは行き着くことはなかった。 同寺の創建者は近藤武兵衛という一般人。商人であった彼は後継ぎに先立たれ、 山伏になって諸国行脚の旅に出た。たまたま京都鹿ケ谷の法然院で万無和尚に出会い、 深く帰依したという。そして名古屋に戻ると志水甲斐守の下屋敷を買い取って、 万無和尚を迎えて雲心寺を開山した。本尊の阿弥陀如来座像(1862年製の木造・ 高さ約4.8m)は市内三大仏のひとつといわれているが、当然見ていない。 竜宮城みたいで何かワクワクしてきたぞ。 【駅での一言】 ここ「西高蔵」駅は小さくて可愛い駅である。というのも出口が2カ所しかなく、いかにも寂れているという感じなんだ。しかし、それぞれのホームには上りエスカレーターも完備しているし、改札口の近くにトイレもあるし、まずまずじゃないのかな。欲を言うと改札口から地上までエレベーターがあると言うことないんだけど、無理かな。(写真は「西高蔵」駅の中のアリサマ。写真に撮るようなたいしたもんでもなかった)
by tomhana190
| 2006-02-27 10:29
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人生の御負け
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