現在の本町通と言ってもピンとくる人はだいたい年寄りしかいなくなってしまった。 それと伝馬町通(桜通の一筋南)はほとんどの名古屋人にも見当も付かない幻の通りだ。 この何でもない2本の通りの何でもない交差点が江戸時代、名古屋一の繁華街であり、 飯田街道の起点だった所だ。そこは「札の辻」と呼ばれ、交差点の南東角地には 高札が掲げられ南西角地には官道の馬継ぎをする大きな伝馬問屋があったという。 ここは文字通り名古屋の中心で、その証拠に城下から各地への距離はココを基点として 定められていたという。今ではそんな気配はまるっとない単なる問屋街の 一交差点に過ぎない。見学時間はどう見ても10秒の所だった。 ![]() 元禄時代の幕政を左右したのはかの柳沢吉保である。微賤の士から身を起こし、 5代将軍綱吉の寵臣として権力をほしいままにし、ついに15万石余の大名にまで累進した。 所変って当時の尾張藩にあって吉保に匹敵する人物が奥田主馬である。 『鸚鵡籠中記』には「江戸において奥田頼母(この当時はこう名乗っていた)200石加増、 御側御用人に成る」と登場する。奥田は100石内外の微禄から年若い藩主に 側女の世話をして3000石の老中役という驚異の出世を果たした当時の出世頭。 そして私邸を三の丸御園門の外に建てようとした。丁度そこに著者である朝日重章が 棟上げに出向いている。その新邸、今の地図でいうと国道19号線と外堀通の交差点、 今の名古屋タイムスあたりだと思われる。ところで彼の結末だが、 下屋敷(建中寺西南、現在の布池町辺り)から急に布団に包まれて私邸に帰ってきて、 程なくして死んだとある。また、下屋敷に仕える女中に刺されたのだという 噂があると記している。なんともはや、である。 ![]() 「丸の内」駅から北に向かって400m程行くと「尾張東照宮」と隣接する 「那古野神社」に行き着く。どうでもいいけど、ここに来たのは15年ぶりかな。 花見にシャレ込んで来たのはいいが、余りの人込みで花見どころでなかった。 来たのが夜ということもあり、神社も狛犬も見ない内に退散したという端にも架からない 顛末だった。今回の来訪が最初だといってもいい。前置きはこれくらいにして本題に入ろう。 この東照宮は藩祖義直が父家康の霊を祀るため名古屋城内三之丸に創建したもの。 本殿は県の文化財に指定されているという優れもの。那古野神社も名古屋城築城後は 城内の一角に鎮座することとなったため城の鎮守神、城下名古屋の氏神とされた。 両神社とも明治になってこの場に移されてきた。これを見た私の第一感は こんなものかなというもの。と、いうのも神社の拝殿や本殿よりも社務所の方が 立派だったから。これでは信心深い私など真面目にお参りする気にもなれないではないか。 ◆金山神社のムクノキ:幹周り5.25m、樹高21m。那古野神社の摂社である金山神社に 名古屋一のムクノキの巨木があった。もとこの地は尾張の俳人横井也有の出生地だという。 ![]() 那古野神社のすぐ北側に名古屋高速都心環状線の高架が走っている。 その北側に今でも名古屋城の外堀がかろうじて残っている。そして、その堀に 掛かる橋がある。今では愛知県図書館入口にかかる橋みたいになってしまったので、 施設の一部としか思えないような小さな橋、それが「御園橋」だ。 この外堀には私が小学生の頃までは名鉄瀬戸線が走っていたというか、堀の底を通っていた。 橋の近くには終点の「堀川」駅という駅があったんだが、名鉄瀬戸線の「栄」乗り入れに伴い この部分は廃線になり今は跡形もなく取り払われている。ところで1861年頃、 この御園橋の角で小屋を建てて、庶民の味みたらしを売っていたという。 味がいいと評判で行列ができる程だったという話が伝わっている。 ![]() その外堀を北に入った、いわゆる官庁街のど真ん中に「愛知県護國神社」という神社がある。 ことの起こりはどうせ第2次世界大戦前の軍国主義盛んな時にできたと思っていたが、 どっこい明治元年の戊辰戦争で死んだ尾張藩戦没者を祀るために明治2年、 尾張藩主徳川慶勝が創建したのが始まりだという。と、いっても所詮は官営の神社だ。 境内は思いのほか広く立派なんだが、愛想というものが感じられない。 あくまで威厳があって近づきにくいしろもの。お参りを済ましてそそくさと引き上げる時、 拝殿の横に思わぬものを見つけてしまった。先の大戦で死んだ人達、それも一般の人ではなく 第□師団□連隊□大隊を祀る碑だとか、戦艦大和の慰霊碑とかいったものが、 それこそありとあらゆるものが境内の一角を占めていた。たった60年前の出来事なのに、 どう見ても今の人達からは見向きもされていないようで何か悲しかったな。 ![]() 名古屋城正門(できれば大手門と書いて欲しいな)を西に向かって下りていくと 掘り割りを取り囲む道に出る。ほとんどの車が右に回るとこを左に折れて、 しばらく行くと堀川に架かる橋「朝日橋」に出る。その橋のたもとに「堀川堀留跡の碑」がある。 堀川は1611年、城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則により 開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、 1784年に行われた大幸川の付け替え、1877年の黒川冶愿による黒川の開削、 更に昭和初期の改修を経て現在の姿になったという。朝日橋は1785年に初めて架橋され、 昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの段差があった。その水音から 『ザーザー橋』と呼ばれたり、お堀の水の落し口近くにあったことから『辰の口橋』あるいは 橋の上を歩いたときの音から『ドンドン橋』と呼ばれ、人々に親しまれていた。 また遡ってくる潮に乗って鯖や鰯がこの付近まで登ってきたといわれている。 ![]() この朝日橋のすぐ北に大幸橋があり南に行くと巾下橋がある。この巾下橋というのは 川の幅よりも道路の幅の方が断然広くて、名古屋と岐阜を結ぶメイン道路(国道22号線)の 象徴でもある。しかし、江戸時代にはこんな道もなく、ここから北へ行った大幸橋から 真直ぐ西へ伸びる道が当時のメイン道路、美濃街道である。この朝日橋のたもとの空地に 小さなお堂があった。みすぼらしい姿から期待もせずに覗いてみると、何と馬頭観音が 鎮座していた。それもとびっきり上物がキリリとしたお顔を輝かせていた。久しぶりのヒットに 踊り出しそうなくらい嬉しかったんだな(話の例えで実際には踊り出してはいない)。 ![]() そんな美濃街道、といっても単なる住宅街の中の小道を西へ向かって市道江川線に 出ようとするところに浅間町の地名の由来ともなった「富士浅間神社」がある。 その名のとおり富士山を祀っている。1398年三谷源太夫という人が富士塚町 (現在の東区東桜1丁目)に勧請したものを1610年名古屋城築城の際、 工事の普請場となったため現在地に移ったという。見るからに小さな神社ではあったが 宮司はいるし、境内は隅々まで浄められ、これぞ神社にお参りに来たという 清々しい気分にさせられた。神社博士である私が言うのもなんだが見てくれではなく やっぱり神社はこうでなくちゃあいけないと思った。 ![]() ![]() ここ「丸の内」駅には桜通線と鶴舞線が乗り入れている。といっても2つの駅が単にくっ付いているという感じ。桜通線の方はまだ新しいのでいいんだが、鶴舞線の方はホームは暗いし、ホームから改札口まではエレベータがあるが、それから上は桜通線の方(300mは離れている)を使わなくてはならず最低の駅だった。(写真:桜通線の方はこんな感じの改札口だった。)
by tomhana190
| 2006-02-27 10:19
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人生の御負け
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