女ながらも万丈の気を吐いたのが湯女出身の勝山だ。畠山箕山の「色道大鏡」によれば、 勝山は武州八王子の出まれで、1646年に丹前の紀伊国屋風呂の湯女となった。 しかし、彼女の美貌と才能はたちまちにして江戸中の評判となり、 1653年吉原の楼主山本芳順が招いて太夫職に抜てきした。 太夫といえば、大名相手の吉原の最高職である。湯女と違って一般庶民には 手の届かない存在だった。実はその2ヵ月ほど前、丹前風呂で旗本と御家人との 大喧嘩があり、そのため紀伊国屋風呂が閉店の憂き目にあい、 勝山自身が蓑振り方を考えていた矢先だった。当時紀伊国屋風呂は湯女風呂の中でも 美人を集めた風呂として人気があった。 中でも勝山、市野等を名指しで来る客が多かった。 そこで山本芳順が紀伊国屋風呂閉鎖を機会に勝山をスカウトしたのだが、 齲市野もまた名楼三浦屋から太夫として出ているところをみると、いずれも劣らぬ美人 だったのであろう。ともかくサルといわれた湯女が見事に吉原中の遊女を見返したのだった。 ただ勝山の場合は全てに人の意表をついたため、それがかえって人気の的となったのである。 また彼女の髷はそれから100年後、1757年刊の「近世江都著聞集」に 「今もっぱら士農工商の女房娘、勝山という髪の風を用いる事なり」とあり、 これから更に50年程すると、いわゆる丸髷として既婚女性の間に定着するのである。 勝山についてはこんな話もある。母の死を聞いた時、揚屋の2階を借り切って ここに仮の札所を作り、巡礼姿で7日間巡り回ったというのだ。またある時、贔屓の客から 島ヒヨドリを1羽もらった。およそ30両もする珍鳥である。しかも籠は銀造り、 休み木は金製だった。しかるに勝山はその鳥を無造作に籠から逃がしてしまった。 我が身と同じ、籠中の鳥に哀れを覚えたからという。奴風の伊達姿を愛した女としては 思いも掛けぬ優しさと情緒を内に秘めていたというエピソードである。 こうして吉原に大きな旋風を巻き起こした勝山は在廓3年にして身を引いている。 当時の湯女にこれだけの才能ある女性がいたということは時代を知る上で、 改めて考えるべきことかもしれない。訳が判らなくなったので今回にて終了です。 神聖というとりは邪悪な妖気を漂わした 一目見て危ない狐である。 (中区若宮神社) これは、これは、利発そうな狐様だとお見受けしたが 如何せん中に入れないのでここで我慢するしかなかった。 熱田区高蔵結御子神社) この狐も腹にイチモツある感じ。 お世辞にもいい感じとは言えなかった。 (中区朝日神社) この狐は恐いというより恐い狐を作ってやろうという 気ばかり焦ってしまって単なる狐になってしまったという感じ。 (西区伊奴神社) この寺ほどいかがわしいところはないのだが 狐様は妙にとぼけた感じで共感が持てた。 (中区万松寺) 参道の途中に耳の折れた狐様がいた。 誰からも見向きもされないように淋しげにいた。 (千種区お千代保稲荷) これは如何に、何とした事であろう。 首がない狐様をこうしておく意味が判らない。 (中区富士浅間神社
by TOMHANA190
| 2006-02-01 18:46
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人生の御負け
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