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心の曼陀羅:1

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二階

「すまぬ、今夜一晩、泊めてくれぬか」裏木戸を細めに開けて、そう言ったのは
素浪人とおぼしき30前のギョロリとしたヒゲ面の侍だった。
外は雨である。ここは旅籠であった。それも、ここ有松では
かつては格のある宿屋であったが今は並以下の旅籠となっていた。
侍などめったに泊めたことはなかった。

「どなたぁ〜」
木戸内で男の声を聞いてそう問うたのはこの旅籠の下女だった。
瞬間、下女は夜も10時という暗い中に透かし目に認めたその男が
下げ肩であることに気付いて一歩退いた。
(刀差しは両刀の重みで自然下げ肩の癖が付いているので、
侍以外の者は影で侍のことを下げ肩とそう呼んだ)
「どなたか知りませぬが、表に回ってくだされ、まだ戸は開きますで」と言った。
しかし、侍は雨の戸口から動こうとせず、頼み続けている。
下女は誰かを呼びに行ったようである。
間もなく出てきたのは、ここの女将と見える風采の五十女だった。

「どなた、どなたですな」
「いや、裏口からすまぬ、曰くあって遅くなり、何処でもよいから一晩だけ頼む。
決して怪しい者ではない」
女将はかんざしを差し直すようにしながら男の様子に目を止めていた。
そして、木戸の処まで近寄り、戸をわずかに開けた。
男は雨というのに傘もささず、頭に手拭いで頬冠りをしていた。
随分とくたびれた黒の着流し、それでも両肩下に三ツ星の紋が付いている。
それに角帯、腰には黒鞘の大刀が差し込まれている。
雨ですっかり濡れているという姿なのだ。

「まあ、ここまで入ってみなされい、ひどい雨だが」
女将はそう言って侍を木戸の内まで入れた。
男はわざわざ表から細い路地へと入り、裏口へと回ってきたらしい。
人を見る目の肥えている宿の女将はこの男の今の状態が凡そ察しがついていた。
男は頬冠りを外して、それで手や肩の雨をぬぐっている。
長身、前ばらしの髷、細面、雪駄履き。
女将はこの男を見た瞬間から悪人ではないな、と、そう想像された。
しかし、「うちは宿屋ですからお泊めはしますが、宿賃だけは前置きに願いますがの」
男は黙ったまま、うつむいている。

翌朝、この侍はなおこの宿に留まっていた。
東海道の宿場町有松辺りは雨も上がり清々しい陽気となっていた。
侍は昨夜、本当の雨しのぎの暗い小部屋で夜を明かしたのであったが、
今日は二階のまともな部屋へと通されていた。
なお、今日は例の戸部村まで出かけるつもりである。
「かあさん」そう言って母親を呼んだのは、ここの一人娘おみつであった。
今朝早く、この侍が明かしたことは、
自身は鯖江藩の藩士であったが、故あってそれを解かれた。
この事情を偶然にも旅先で知ったこの近くの戸部村の御仁が、
「よろしければ一度、拙宅を訪れてくだされてもよい」という言葉を残していったので、
それを頼りに尋ねてきたというのである。
なるほど、男はその宛名書きを懐にしていた。
尾州名古屋城下、戸部村、小木曽忠左衛門。

これを知った女将はたかが一泊の縁とはいえ、
この汚れた姿で戸部村まで行かせることに、心許ない思いであった。
「かあさま、これでよいかの」娘おみつは黒紋付を立ったまま拡げてみせた。
「よかろうで、合うも合わぬも仕方がないわな」
「はい、はい」
17歳になる一人娘は、そう言いながら紋付着物を持って、
この侍のいる二階へと上がっていった。
この黒の紋付は古いといえば古いものであったが、
5年前に亡くなった女将の主人のものであった。
それを二階の侍へ着替えとして与えようというのである。
今朝起きて、顔に剃刀を当てた浪人はさっぱりとした顔立ちになっていた。
そして、懐不如意の身にもかかわらず、
しかも一泊の恩義のある女将の厚意に本当に有難いものを感じていた。
「お客さん、これ、ちゃんのだったんですが、着てみてくだされい。
それに紋が違いますが、よろしいかの」
おみつは、そう言いながら紋付を侍の前へ差し置いた。

初夏の日、今日もカラッと晴れた良い天候である。
丁度この時から二刻あと、颯爽とした浪人侍とそれを戸部村まで案内してゆく
赤い日傘の娘とが東海道を西へと進んでいた。
近くの成海神社の狛犬達が厳つい顔で2人を見守っていた。
2人はあたかも若い夫婦のように、輝いた姿に見えた。

思いつきに書いてみた。
いかが相成るか、私にも判らない。
by TOMHANA190 | 2006-02-01 16:36


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