建っている辺りは淑徳高等女学校と市電の車庫になっていた。 またそれ以前、明治24年の地図を見るとその付近には何と大きな池があった。 この池、東西118間、南北60間ほどの大きさで蝮ヶ池と呼ばれていたが、大正11年頃に 埋め立てられたという。池下という地名はどうもこの蝮ヶ池の下という意味らしい。 明治38年、中区に開校した淑徳女学校は昭和3年にこの池下の地に移転し、 戦後の昭和34年に星ヶ丘へ移るまでのあいだココ池下が本拠であった。 また池下駅の東に「堀割(ほりわり)町」よいう名が残っているが、これはココにあった 蝮ヶ池から本山の猫ヶ洞池に水を流すためのトンネルを掘ったことからできた地名。 残念ながらこのトンネルはうまくいかず途中で中止されて跡形もなくなってしまったが。 (写真:池下駅の直ぐ傍にあった三喜神社) 当時この蝮ヶ池(名前はこのあたりに蝮(まむし)が多かったことに由来するようだ)は 景色もよく人々の遊興の地として賑わっていた。そのことは朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」にも ちゃんと記載されている。1660年頃、蝮ヶ池から引いた農業用水を使って名古屋新田という 新田が開発された。名古屋新田は北は北区大曽根から南は瑞穂区井戸田までの 大きな新田で総面積290haもあったという。駅から300m程北に行った所にある 蝮ヶ池八幡宮(階段を登った丘の上にある。本殿はどうということなかったが、 大正10年奉納の狛犬が立派だった。さしずめ名だたる名工の作か)は高見町の辺りに 屋敷を構えていた名古屋新田開発の大庄屋・兼松源蔵が蝮ヶ池から用水路を 引く際に建てたとされ、また蝮ヶ池の底だった一角(厚生年金会館の北側)には 可愛い蝮ヶ池竜神も祀られている。(写真:蝮ヶ池八幡宮にあった狛犬) なんか場違いのような気もしたが私はPL教団のことは何にも知らないときている。 せいぜい高校野球の常連校でプロ野球でも一大勢力を誇っているということぐらい。 早速HPで調べてみると、信徒数118万人を誇るPL教団は正式名称を パーフェクト・リバティー教団といい、1924年ひとのみち教団という名で立教した。 すぐ当時の政府から弾圧を受け解散。戦後PL教団として再度立教、現在は第2代教祖の 長男である現教主・御木貴日止(みきたかひと)師のもと布教が展開されている。 教団の特色としては「PL21ヶ条の処世訓(おおしえ)」がその基本教義となる。 ひとのみち教団から続く「人としての生き方・正しいあり方」を述べた、 わかりやすくためになる処世訓で、いわく「人の一生は自己の表現(芸術活動)であり、 この自己表現が神の意志にかなうよう、自己の鍛練に努めねばならない。 さすれば、真の自由に生きることが可能になる」という立派な教えだが、 皆さん判ったかな。(写真:いわゆるPL教団ビル) ここら辺りは昔から月見で有名な場所だとみえ高針道から東に向って登ってくる 月を描いた絵が多く残されている。しかし今の町名は春岡町、何の有り難みもない。 しばらく坂を登ると門構えの立派なお寺に出る。地元の人からはあの一畑山薬師寺の 名古屋別院として有名なお寺なのだ。昔の医療が発達していない時代、 病気は重大な関心事だった。お寺で言えば薬師寺、神社でいうと出雲系の 少彦名命(スクナヒコナノミコト:後の童話の一寸法師のモデル)を祭る神社は 病気に関係があり全国に数多くあるという。まぁパッとしない薬師寺を辞し、 東に400mほど行くと丸山神明社(今でも毎月1と6の日に境内で野菜市が開かれている。 取材に訪れた日もやっていたのだ)がある。この辺り東部丘陵の一番西側で 南に広がる高台はかつて丸山と呼ばれ、昔は丸山村と呼ばれていた。 この神社はいわゆる農耕の神様を祀ったもので、鳥居は代表的な神明鳥居と 呼ばれるものだった。そして、この神社の前の小道が実は四観音道と呼ばれた古道なのだ。 今でこそ気付く人も稀なこの道は南の笠寺観音と北の竜泉寺を結ぶ幹線道路で 当時のメインストリートだった。(写真:丸山神明社の全景) 古びた寺があった。戦時中、20才の青年がその辺りに疎開していた。 その青年が薬師如来に参拝していると薬師如来が体の中に入り神通力を得たという。 戦後、名古屋に帰省し、そこで占いや身の上相談をしているうちに信者が増え、 ついには岡崎に私財を投げ打って7万坪の土地を買い薬師寺を建立した。 それがテレビでばんばんコマーシャルを流し、近頃は境内の一角から お告げによって温泉も出てきたといい、温泉に入れるお寺として 評判の高い一畑山薬師寺なのだ。(写真:一畑山薬師寺名古屋別院) 大きな和風建造物に出会った。まぁ、こんなこと言っちゃぁナンダが広小路通を挟んで 新興宗教が競い合ってる格好にも見える。信徒数190万人を誇る天理教は 裕福な農民であった中山善兵衛の妻・中山みきが開祖の新興宗教である。 みきが41歳の時、神懸り状態になり真理を広く人民に流布せんと宗教活動に入った。 神託はみきの口からだけでなく「おふでさき」と呼ばれる自動書記 (自分の意思にかかわらず勝手に手が動いて文字を書くこと)でも行なわれた。 立教後しばらくは貧困の生活を余儀なくされたようだが、明治期には近畿一円に知られる 有名な宗教になっていた。名を馳せると共に妨害も多くなり、異端の神を崇拝する 危険集団として官憲の迫害を受けた。それでも信者は増加の一途をたどり、 みきが亡くなった頃(明治後期)にはすでに「天理教信徒300万余」と表現されるまでに 大発展し、ついには一派独立を果たした。(写真:天理教名京大教会の全景 ) 国から宗教として認められたことを表わした。当時一派独立を果たすということは 現在の宗教法人認可よりもずっと条件が厳しかったのでその頃既に天理教は 普通の宗教として認められていたといえるのではないだろうか。 また天理教は既成宗教がやってこなかった海外布教にも力を入れ、 日本から海外に出たおそらく初めての宗教だといわれている。 今でも海外に多くの信者を持ち、神道系の独立宗派では最大規模といえるだろう。 それにしても、この教団の教えはきわめてシンプルでわかりやすく、 また典型的な現世利益追求型でもある。また、中山みきの妄想力というのは 常人の域をはるかに超えているし、「ぢば」や「おふでさき」など数々の用語や しきたりはオリジナリティに富んでいて好感も持てる。しかもこの開祖は思想だけでなく 自ら施しの精神を実践したところがタダモノではないと思う。 (写真:今の四観音道は単なる路地の細道) ここ池下には若い人に人気な飲食店がある。フレンチでありながら何故かアンティック・ オルゴールが流れる店「赤い靴」、牛モツエキス入り八丁味噌のタレがかかった味噌串カツ (1皿350円)が自慢の「當り屋本店」、また古川美術館の少し南側を歩くと懐石料理、 和食、イタリア料理、フランス料理…と見境のないぐらいに乱立しているその全てが 豪華な宝石を身にまとった下品な女社長で有名な「よし川グループ」もある (どの店も行ったことないが)。しかし私にとって思い出深い店といえば 「グリルプランセス」をおいて他にない。オーソドックスなインテリアと古臭い給仕の アンバランスが何とも言えず落ち着ける。ダマされたと思ってハンバーグステーキ(700円)を 食べてみろ。ビックリするのが当り前のような美味しさだぞ。 そうそう、もう1軒大事な店を忘れていた。駅から歩いて2分もしないとこ (今ではヘルスビルの真ん前で恥ずかしくて入れなかっただろうな)にあった焼き鳥屋 (すいません名前は忘れました)。今から30年程前にここで高藤クンやガキちゃん達に 会わなかったら今の私はいない。この店もとっくに潰れて跡形もないんだが。 (写真:街に埋もれたグリルプランセス) 【駅での一言】 地下鉄「池下」駅はコンパクトな駅で錦通の東の突き当たりにある。でも身障者用トイレやエレベーターも設置してあり構内売店、交通局直営店もあるという豪華さだ。ここにはかつて昭和35年開業当時から藤ヶ丘開業の昭和44年まで池下車庫があって、その時の名残で現在もホームの西側に車両2編成分の留置線が残っている。現在も高畑行き5:30発の一番電車の内の1本がこの駅始発となる。ホームが比較的地上に近いため西改札口は地下ではなく地上にあるという珍しさだ。
by tomhana190
| 2010-03-13 08:38
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人生の御負け
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