![]() 「よいな、慌てるでないぞ。ゆっくりと落ち着いて、 音色だけに心をとめて、うろうろせずに立派にお望みを果たしてこい。 家門の名誉じゃぞ。無事終わって戻ってくる事を祈っておる」 そういう父親はわずかな禄を食む下級武士で、しかも今病身だった。 お鹿という娘と二人暮しである。 その娘お鹿は横笛が大変うまく、7つ8つの頃から家にあった笛を習い始め、 その後、呼続村の隠居中の庄屋の先代から手ほどきを受けた。 それからめきめきと上達し、難しい曲までこなすようになっていた。 「鹿どのは笛を習って、天上の羽衣にでもなるつもりかの」 父の同輩の子息達がお鹿を見るとからかった。 お鹿は格別器量よしというのではなかったが、 さすがにこうした事に秀でている者はどこか違った容色が見られるのだった。 色白で顎のところに米粒大のホクロがあった。 それが何とも愛くるしかった。お鹿ももう年頃である。 このお鹿に、事もあろうに宮の宿にある藩邸、海に浮かぶ東浜御殿での 月見の宴に横笛を奏けというご下命が下った。 その知らせが伝馬町に近いお鹿の家に伝えられたのは8月23日の夕刻であった。 東浜御殿の奥女中がそれを知らせてきた。 「お父さま、お断りくだされい、お殿さまの御前なぞでは身が震えて、 笛どころではないですがの」そういってお断りしたのであったが「お殿さま直々の ご下命じゃによって、左様、心得ておきゃれよ」ということで、否応なしであった。 いよいよその日が来て、お鹿は迎えの御勝手御用達職の家の女中頭と共に 御殿へ伺う時刻になった。ただ今、午後3時、お鹿は「粗そうのないようにな」 という父に送られて、錦袋に入った笛を胸に抱えて家を出ていった。 さっぱりとした衣服と天神髷の費用は御勝手方の方から前もって届けられていた。 裁断橋の近くにある鈴の宮神社の鳥居まで道々した父親は どこまでも案じながら涙ぐんでいた。 月は御殿の背後から上がりはじめた。藩邸の全ての灯りが打ち消されて、 辺りは紺碧なる夜空に雲ひとつなく、静寂そのものとなった。 淡く光る大きな月は山の端を抜け出て静かに宮の宿を照らしはじめた。 名月の夜はまさに恵まれた趣になった。 御殿前庭の広場に二段の大台が作られ、それにすすき穂を活けた大花瓶が置かれ、 その前に腰高の朱器に団子が盛られて添えられている。その前面に広く居並ぶ重臣達や 近侍達、その奥中央に一段高く殿様の大座布団が敷かれている。 その横に奥方、更に奥御女中達の席が重臣の後ろに馬てい形に並んでいた。 全席の中心にひとつだけ朱塗りの行灯が置かれ、それには既に灯が入っていた。 それぞれに敷かれたゴザ、それに今宵の会席膳が並んでいる。 間もなく、御殿内から箱提灯を手にした奥御女中を先頭に、 殿様が出られ、席に着かれた。奥方がそれに続いた。お二人とも40代である。 全家臣が低頭して迎えた。殿様の横にある大花瓶のすすき穂も微かに揺れている。 「去年は確か雨であったが、今宵は観月に相応しい晩であるの」 殿様は一同を見渡しながらゆっくりと一言された。一同、仰せの如くという表情をした。 その時、家老が殿様の方を正視し、御礼言上して、 「上様、この宵は御観月の宴に諸々御招きに預かりまして誠に有り難う存じます。 一同、心から厚く御礼申し上げます」殿様は深くうなずき、ご満悦の様子である。 そして「おい、よい月じゃの、もう上がったではないか」いつか月は大空を渡っていた。 丁度その時、宴席から離れた渡船場の方向から笛の美しい音色が聞こえ始めた。 お鹿の精魂を込めての奏でである。彼女はむろん諸士の席へは近寄れない。 ずっと離れて設けられた床机にきちんと腰を掛け、一同の方向へ向かって目を閉じた姿勢である。 曲は「せきれい」である。諸士一同は突然の笛音に、暗く完視できないその方向を見やった。 音色は時に微かに、時に激しく、震えるように宴席へと届いている。 天の月はこうこうと時折、矢の如く射込んでよぎる細い黒雲を流しながら、 明るく地上を照らしている。宴席の辺りもそれぞれの面が判る程明るくなった。 この綺麗な満月。あたかもせきれいの曲はその様に合わせた如く、 鋭さ、優しさ、高音、低音のまさに波音であった。 一同はむろん殿様をはじめ、月を見るよりもその曲に目を閉じ、耳を澄ました。 咳払いひとつない静寂の中、その曲は一同感動の内に終わった。 一息いれた後、次の曲になった。これは更に静かな曲である。 笛の上を遊ぶが如く上下するお鹿の白い10本の指、お鹿も自らが陶酔するかのように目を閉じ、 白い顎を微かに動かしての奏でである。それはまさに絶妙の音色といってよかった。 曲はしばらくして終わった。お鹿は笛を納めて立上がると、 殿様の方に向かって深く腰を折って丁寧に礼をした。むろんそれは宴席からは見えていなかった。 一同はほっと気付いたように我にかえった。しばらくしてから殿様がいわれた。 「余よりも高いの」 「見事で御座いまする」城代が応えた。 殿様が余よりも高い、といったのは笛を完全に自分のものとした上で、 その境地が人の心を揺さぶるまでの高い雰囲気を持ち、 完全に陶酔させたことへの言葉であった。 満月はこうこうと泰平の名古屋城下を照らしてはなはだ美しい。 思えばこの月を一番感慨をもって眺めているのは、殿よりも、お鹿よりも、 それは彼女の父であるといえよう。 法歴3年9月15日の名月の夜も、穏やかに更けていった。
by tomhana190
| 2010-03-13 08:03
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人生の御負け
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