江戸時代に入って湯屋が単に洗湯にとどまらず、心ざま優しく容色たぐいなき女房どもが 百の媚をつくって垢をかき、髪を洗ったという。その後、1650年代になると、 銭湯は午後4時頃には閉店し、以後はにわか座敷にして金屏風をめぐらし、 遊女スタイルになった湯女が客の席にはべって、大いに賑わったという。 そして湯女風呂の繁盛にひきかえ、次第に衰退する吉原では ついに遊女を湯女風呂に派遣してアルバイトさせるところまで零落した。 これは吉原という所が元来夜間営業は禁止で、昼の遊興場なのであったから。 だから、午後2時頃までに来ても夕刻までには帰らなくてはならない所なのだ。 そもそも吉原は天下の公娼であり、何となく見識が高く、遊女の揚代にしても 湯女風呂の私娼とは比較にならない程高額であった。第一、陽が燦々と降り注ぐような 真っ昼間に、遊女と睦言を交わす気になるだろうか。遊興はやはり夜の方が 一層情緒を添えるはずだ。そうしたところから庶民の足が吉原を敬遠したようだ。 特に江戸に単身赴任の勤番武士にはこうした施設は無聊を慰めるために 欠かせない所であり、幕府としても建前上これを禁じたが、こうした風俗に関する法令は いつの時代でもザルの目であった。参勤交代制自体の矛盾なのだから、 各藩とも表向きはともかく見て見ぬふりをせざるを得なかった。 ということで湯女風呂が神田界隈や道三橋付近、鎌倉河岸辺り、 江戸城の外堀を取り囲む所、武家屋敷周辺に発達したのも故なしとしない。 そういう湯女風呂で有名なのが越後蒲原郡村松の領主で3万石の 堀丹後守の屋敷前にあった丹前風呂。丹後守の屋敷前だから丹前風呂なのである。 今の神田淡路町の交差点から須田町へかけての右側になるらしいが、 ここの湯女で一世を風靡したのが勝山だ。通いつめた常連客の中に伊達を売り物にする 旗本奴の三浦小次郎義也らの「よしや組」がいたらしい。目立ちたがり屋の 旗本奴ならずとも。こうしたところに集まるのは無頼の輩も多かった。 当然のことながら、湯女風呂には格式ばった息苦しさがなかっただけに、 時には争いもあったという。勤番武士が湯女風呂を禁じられたのは ここが御禁制の私娼窟だからという理由の他に、こうした市井の争いに巻き込まれるのを 恐れたためでもあった。この湯女、江戸では「サル」といわれた。 おそらく吉原の遊女あたりが湯女を軽蔑して呼んだのが初めてではないだろうか。 軽蔑しながら一方ではその隆盛ぶりを羨望していたのである。 湯女はもと湯維那(ゆいな)といい、寺院の浴堂の管理僧だったのである。 というのも浴堂は斎戒沐浴するところであり、中央壇上には礼拝すべき仏の像が あるという神聖な場所だ。したがってこれを管理するための湯維那は寺院内でも ある程度位階の高い僧である。この湯維那がやがて湯那(ゆな)と略され、 町湯が増加するとともに、管理という意味からサービスするという意味に変っていき、 女性が進出した。そのため湯那が湯女という風に呼ばれるようになったという。 この話の続きは次回にて。 ![]() 寺のような静かな神社に写真映りのいい顔立ちの狛犬がいた。 こういうのを見ると、何か得したような気になるから不思議だ。 (滋賀県胡宮神社) ![]() 写真映りだけでもったような狛犬。 実物はそれほどでもない。 (滋賀県胡宮神社) ![]() とある神社の拝殿前にいた。 厳つい顔というより、何処か笑える顔だ。 (滋賀県甲良神社) ![]() こんな狛犬は今まで見た事がない。 驚くというより日本も広いんだなと思った。 (滋賀県甲良神社) ![]() 頭でっかちの笑える狛犬がいた。 色といい、雰囲気といい、何か変っている。 (滋賀県阿自岐神社) ![]() 戦後生まれの普及型狛犬で これといってコメントもない。 (滋賀県苗村神社) ![]() 彩色があって面白いのかな。 これも戦後生まれの普及型狛犬だ。 (滋賀県苗村神社) ![]() ごく普通な神社に何処となく変な狛犬がいた。 口を開けた顔がトカゲのようで変っていた。 (滋賀県柏木神社) ![]() 三重県の山奥にいた狛犬、これも一段と変っている。 気持ちも判るけど、檻というのはいかがなものかな。 (三重県真木山神社)
by tomhana190
| 2010-03-13 07:43
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人生の御負け
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