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心の曼陀羅:8 

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飢饉

飯田へと通じる在の村の一角で、
腰に草の根の束を縛り付けたまま、ひとりの老婆が道脇に倒れていた。
痩せこけた老婆はあたかも猫のように小さかった。
道脇の溝水でも飲もうとして、そのまま立ち上がれなかったようである。
そこへたまたま通りかかったのが挙母藩からこの地に代官として来ている近沢裕之進である。

裕之進はすぐ近寄って老婆の細腕をつかんだ。
老婆は死んではいなかったが、生きたものでもなかった。裕之進は小者をひとり連れていた。
彼は老婆をすぐ引き起こすこともできず、小者に命じて辺りの者を呼びに行かせた。
高声にもかかわらず誰ひとりとして現われてこない。
彼は瞬間困惑したが「よし」といって、着物を腰から抜くと供の小者に渡し、
その手で老婆を抱き上げた。軽い体である。そして近くの小屋影へと運んだ。
汚れた衣、片方しか付けていない足中草履、小さな目をむいて老婆は動かない。
裕之進はさっそくここの庄屋に小者を走らせた。

程なくして庄屋の主ではなく、その子息が息をきらせてやってきた。
裕之進はこの子息にうんぬんの事を言い付け、その場をようやく立ち去った。
大飢饉に今襲われているこの一帯はこうした悲惨事が次々と続いていた。
つい4日前も同じこの村で、乳飲み子とその母親が飢えに苦しみ、赤子とともに息を引き取った。
哀れな最後であった。人々はこの飢えの苦しさに地上を這い回るように命の糧を求めた。
裕之進は飢餓の中でも特にひどい4ヶ村のこの惨状を幾度となく藩に具申したのであったが、
しかし、上役は「何処も同じ」というお決まりの返答を繰り返すばかりであった。
事実それは広く全体に変らぬ状態である事に違いはなかった。
けれども、上には更に上の厳しさがある事を避ける事はできなかった。

足りないを憂うに非ずして、等からざるを憂う。

ここを管理する代官近沢裕之進は苦悩した。
実は彼のこれらの義憤は昨年より始まっていたのであった。
御蔵前係を兼ねる彼は既に昨秋の米の現物納入量と、報告台帳とを違えていたのであった。
つまり、実際は蔵入りしていないのに入った事にしたのである。
検見役の厳しさは到底不合理なものであった。
全てそれは農民への非情なまでの皺寄せであった。

明けて今年になっても、なおこの大飢饉は続いた。
彼はある日、4ヶ村民に一人当り一杯の粥を合わせた数を
郷倉から引き出す事を考えたのである。
「窮すれば濫す」彼は或る夜、それを決死で決行し、郷倉の封印を破った。
ところがこれをいち早く、無念な事に目明かしに嗅ぎつかれたのである。
目明かし十字初五郎は即座に目付けへと報告した。
更にこの事は城代の知るところとなった。
近沢裕之進の運命はこの瞬間に決まった。
それは4月の桜の花の美しく風に揺れる日であった。

藩主は江戸参府中の事でもあり、この事の采配一切は城代の決する処となった。
ただ、事情報告として江戸の藩主にこの事はもたらせる手筈であった。


前郷代官 近沢裕之進
右神田御郷倉封印剥奪のかどにより、
合議の結果、斬罪に処する、旨 
           右 以上

裕之進はその翌日、顔見知りの役人等の手によって身柄を飯盛山にほど近い、
巴川沿いにある屋敷へと唐丸籠に入れられて護送されていった。
その屋敷の主人は天伯神社の傍にある藩邸の御用を長年勤めていた甚衛門であった。
裕之進にもこの辺りのことでは以前から知遇を得ていた庄屋の彼が
寄りに寄って処刑のお膳立てをすることになろうとは。
そして昼過ぎ裕之進は裏手の山中に引かれていった。
農民達は影で嗚咽と涙でもってこの姿を見送った。
その後、江戸の藩主によりその罪は及ばず、の下告通達が届いたのであったが、
義士裕之進には知るよしもなかった。
by tomhana190 | 2010-03-13 07:29


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