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心の曼陀羅:16

桜花

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そんな春の日の昼下がり、
神君家康公の御祖父であらせられる清康公の時代から
代々岡崎城の守神と称えられた竜城神社での出来事。

白面の殿様の高髷が春の陽に光っていた。
きらびやかな上掛の大きな襟がゆったりと流れ落ちるところ、
そこに赤い大杯が置かれていた。
ようやくにして殿様の頬に朱が差しはじめて、殿様はいよいよ満足げであった。
空一杯の桜花、略式ながら野辺に運ばれた什器は鮮やかである。
殿様の両横に重々しく着飾った老女、
それに続いて左右膳部を前にした重臣達がずらりと居並んでいた。
満悦の殿様がまた大杯を取り上げると、
前に控える麗しき侍女が白き手に酒杓を捧げてそれに注いだ。
その時である。
殿様に何か物憂げな家臣のひとりが目についた。
長身の40年配の武士である。
殿様は微笑みを浮かべながら、おもむろにその家臣に声を掛けた。

「その方、先刻からいかにもはえぬ面持ちであるが、いかがいたした。
何か不都合でもあったか」殿様は微笑みの中にも品位と慈愛の目で尋ねた。
ハタッと気付いたその武士は殿様の方に丁重に向き直ると、畏まって応えた。
「ハハッ、何の不都合の御座りましょうぞ。本日の御宴の御栄え、
ただただ陪観の光栄に感激いたしておりまする次第に御座りまする」
彼はそう言い上げたあと、うやうやしく、しかも喜びをもって低頭した。
「左様か、左様であったか、…しからばいかがじゃ、ひとつ舞わぬか、
その方は確か舞の名手であったと心得るが」殿様は更に続けた。
「…のう、そう畏まるでないわ。本日は上げての観桜の宴、
存分に盃を干せ、そして舞おうぞ。
皆の者も、その名手に続いてそれぞれに一興を披露して見せよ。
さあ名手、舞おうぞ、舞ってみせようぞ」

彼は乞われて、困った表情の中にも静かに上席に向かって低頭すると、
立上がって中央へと出ていった。
やはり用意の金扇を懐から抜き出すと、それをパラリと広げて差しかざした。
居並ぶ一同の目が一斉に金扇に吸い付けられた。
やがて、彼は独特の美技の中に唱いながら舞い始めた。
桜花の影に金扇が美しい。

岡崎城下に春満ちて 今爛漫の花の下
お召しに高く立ち舞わん
光に赤の色栄えし 御前に風のいや優し
千代の主殿のいや栄え 千代の主殿のいや栄え

続いて幾つかの唄を唱いながら大きく立ち舞っていた彼が
やがて白足袋の足許をスッと引き揃えると、金扇をたたんで静かに舞い納めた。
侍女達をはじめとして、一斉に喝采が起った。
喝采が納まるとともに、殿様が言った。
「おう、即興とはいえ見事であった。見事、見事、いざ、これを取らそうぞ」
侍女を通じて殿様から赤い大杯が廻されてきた。
殿様は脇息にわずかにもたれながら
「次はいかがした」と満悦微笑みの中に催促した。
by tomhana190 | 2010-03-04 15:37


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