私の読書感想:7

レクイエム

私が一見右翼のヨカラヌ者が好んで読むような、そんな戦争の本を読むようになったかというと、
そもそもの切っ掛けは高校生の時に遡る。何時とはハッキリ憶えていないが高3のある日、
父が機嫌よく「今日は戦争の話でもしてやろうか」といって何処からか
1枚の地図を持ち出してきた。その地図、今ままでに一度も見たことのない
当時のフィリピンの詳細な地図だった。1杯飲んでいた父はそれから延々としゃべり続けた。
父は昭和16年に召集されて以来ずっと東南アジアを飛び回ってきた。
どうした訳か父は陸軍で輸送機の機長(父の話を検証する方法も判らないので
そのまま言われたことをそのまま書くしかない)をしていたという。

出征したての頃の話は「ラングーンの本屋で欧米の秘密結社(確かペリーメイスン)の
住所録を買った」とか「ラバウルではモロ島にちなんでモロという名の子犬を飼っていた」
といった緊張感のない話ばかり、それも何故か飛び飛びでいきなり昭和20年の終戦まじか
フィリピンから帰ってきた話に移った。そして一介の応召中尉がフィリピンから
ワザワザ飛行機に乗って日本に帰ってきたという話をフンフンとただ聞いていた。
話を聞いていると何かのんびりした話で内容が個人の出来事なのか、
そもそもその時軍隊に所属していたのかどうかもはっきりしない。
しかしその頃、日本軍は崩壊していただろうから無理もないかとその時は
「そういうものなのか」となんとなく納得していた。その時の父の話は私には難しかったし、
興味もなかったのでタダタダ聞き流していた。

父の死から何年も経った頃、父の妹が死んだ。無事葬式も済み、形見分けで
部屋を整理していたら叔母の連れ合いである叔父の少尉になった時の任官証と短剣、
それと少尉用の儀礼服が押入の片隅から出てきた。
生きている時は聡明そうな叔母も叔父もそういう戦争の話は一切しなかったし、
あの頃の人では珍しくリベラルそうな叔母夫婦に私は誇りすら感じていた。
しかし、こうして戦争の記念品みたいなものが大事にされているところを見るに付け、
あの戦争はどういうものだったのかという疑問がココロに残った。
それから何年も経って、本屋で大岡昇平の「レイテ戦記」という文庫本を
何思う訳でもなく買った。その本を読んで私はタダタダ圧倒された。

アメリカ軍の上陸から日本軍の壊滅までのたった5ヶ月間を3册にわたって書き記されたものは
膨大な資料の中から著者(フィリピンの別の所で捕虜になっていた)が事実だと判断したもの、
そういう事実が細大もらさず集積されていることだ。そして通常の戦史が
戦争を集団的な行動としてとらえ、戦場で起った過酷な事態も統計的に処理するのに反して
戦場で戦うのは兵士という人間であり司令官や少数の軍神の実績ではない。
戦争という巨大な動きに翻弄された人間1人1人の血と肉でつくった史実。
普通の人間が戦い、普通の人間が死んでいったという事実認識が全編にわたって
具体的に詳述されている。そういう事実としての戦争に圧倒された。

父も所属(確か第□□独立□□隊だったように記憶している)していた部隊は違っていたが
この本と同じフィリピンで同じ時期に戦い、彷徨いながらも偶然にも無事生還できた。
この本を読んでから色々な疑問、素朴な思いが膨らんできたが尋ねようにも、もう父はいない。
そして正確な軍暦を息子である私に何一つ伝え残すことなく死んでいったということが
私のココロに重くのしかかった。あの時、何でもっと丁寧に聞いてやらなかったんだと
悔やんでみてももう遅い。それ以来そんな戦争の本をワザワザ古本屋で探しては
1册1册ムシャブリ付くようにして読んできた。ここには死んでいった兵士達が
どんな風に死んでいったかというありのままの事実と今生きている者に向かっては
戦争とはどれほど悲惨な異常事であるかを改めて突き付ける完璧な証言があった。
そして過ぎ去った戦争の実相についての膨大な証言はいつまでも消え去らないだろう
戦争の愚かさを浮き彫りにし、戦争についてもう一度考え直すことを
我々に促さずにはおかないのである。この機会に私が読んできた戦争本を
1册1册紹介していこうと思う。「紹介したから何だ」という問題ではなく、過去のものとして
目をそらしている多くの人達に向かっては新たな誓いの場であり、
死んでいった人達へは「やすらかに眠れ」というレクイエムのつもりである。

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戦争書籍1:『華中第一線
◆森金千秋著 ◆昭和52年発行 ◆定価1,500円

この本は昭和14年の秋、広島第5師団管区において新たに編成された通称藤部隊(すなわち第39師団/総人員14,000人)の戦闘の軌跡を中心に日中戦争最前線の全貌と真実に迫った本である。藤部隊は中支派遣軍の指揮下に入り漢口周辺に上陸すると、ひとまず付近の諸都市を警備。続いて西北方の大洪山脈に沿って進撃を開始。長江の一大支流漢水(襄河)の白河の渡河戦において最初の苦杯をなめたが、遂にはこの難水路を突破して河畔にそびえる襄陽城を第3師団(総人員25,000人)に協力して占領した。そして息付く暇もなく襄河を西に渡り、いわゆる襄西地区を襄河沿いに南下進撃する。同じくその西側山地を南下中の第3師団に率先して、かの三国志に有名な荊門当陽を占領し進んで長駆鴉雀嶺に進撃する。折しも湖北平野の最西端である宜昌占領の任を帯びて長江北岸の湿地帯を苦戦しながら西進中の第13師団(総人員25,000人)に強力な援助を送り遂に宜昌攻略を達成する。

こんな文章がある『新任の見習士官にとって実践の指揮ほど難しいものはない。陸士の出身者でみっちり専門教育を身に付け、能力見識ともに将校の適性者ならともかく、将校増産時代の幹候として6ヶ月間の速成教育を受けただけで、いきなり戦場の主のような兵を指揮しようとしてもそう簡単には問屋が卸さない。戦闘の経験も味噌汁の数も部下兵の方が数段上であり、知能必ずしも兵隊が劣っているとも思われない。チンプンカンな号令を掛けて兵隊の嘲笑をかったり、卑怯な振る舞いをして人格を疑われる例は少なくなかった。初陣の松田見習士官にとって不運だったのは島田大尉も一目置く岩岡軍曹の存在することだった。島田隊が目標の高地の下300mに接近した時、高地上の敵が烈しく撃ってきた。島田中隊長は右第一線を進撃中の第1小隊にすかさず高地の占領を命じた。

命令を受けるや小隊長の松田見習士官は何を勘違いしたのか部下兵の小銃を借りて敵を狙撃しようとした。連絡係下士官として第1小隊の位置にあった岩岡軍曹がたまりかねて小隊長に詰め寄った。「小隊長、威厳がない刀を抜け」岩岡軍曹に指摘されて赤恥をかいた松田見習士官が重ねて失態を演じた。攻撃に際して発煙筒を展開しようとして小隊兵に命じればいいものを、小隊長自ら点火した。前部と後部を間違えたためヴォッと爆煙を胸部に受けて尻餅をついた。「やられた!」爆発のショックを敵弾の被弾とでも思ったのか情けない叫び声をあげて倒れた。「馬鹿野郎ッ、ぶった斬るぞ!」岩岡軍曹の罵声が飛んだ。「見習士官、待て!」島田大尉がたまりかねて‥‥』

この戦記は筆者が戦場経験者から見聞した抽象論ではない。筆者自身が歩兵第232連隊所属の最前線の一兵士として銃をかついで中支の野戦で実際に戦った経験者であるということ。そして戦争とは私達が考えているように、イメージしているように参謀達の作った作戦計画通りにそもそも始まってくれないということ。考えも及ばない時間と場所で突然バタバタと始まる。だから戦争とは最前線の下級指揮官の手仕事だともいえる。最前線の下級指揮官と兵士の英知と英断、度胸と機敏さが結局戦局を制し勝敗を決する。ということは戦争の真実とは第一線の戦闘参加者でなければ判らないということだ。中国軍と対戦し相手が潰走するのを見て万歳を叫んだからといって、今私達がそれを非難したり詰問したりはできない。戦争とはそういうものであり戦場における兵士の真実はまさにその通りであったから。私達が戦場に立った時、あんなに馬鹿にしていた万歳を叫ばないという保証はどこにもないのだ。
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# by TOMHANA190 | 2005-12-21 16:36