人生の御負け[アーカイブ]
2013-03-09T04:41:49+09:00
tomhana190
★積もりに積もってアーカイブ。言うなれば過去の記録の保存庫です。
Excite Blog
私の読書感想:2
http://tomhana191.exblog.jp/12300281/
2010-03-13T09:52:00+09:00
2013-03-09T04:41:49+09:00
2010-03-13T09:52:28+09:00
tomhana190
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貸出書籍04:『名古屋いまむかし』
昭和53年発行…定価1,900円
借りてきて言うのもなんだが、この本、昔確か私が買った本だった。
本を持った時そう思った。かれこれ30年程前、栄のデザイン事務所に勤めていた頃、
行商みたいな感じで本を売りに来た人から買った本がこの本だった。
そうに間違いない。その頃はササッと見て妙に納得したんだが、お決まりの本棚の
藻屑となって今じゃどこにあるのかも定かでない。その本をまた借りて来るとは、
なんか不思議なエニシで結ばれているみたい。内容的にはこれといったものもないみたいだ。
郷土の歴史入門書といったところか。
貸出書籍05/06:『熱田区の歴史散歩・ぶらっと中村』
舟橋武志著:昭和59年発行…定価980円・昭和59年発行…定価980円
この本にはブックショップ「マイタウン」という出版社が編集したシリーズで
全区16冊もある。こういう本どうしたもんか迷ってしまうんだな。
私にとって面白いかと言えばそれはそうなんだが、それがどうしたと
素直に反論もしたくなる。なんか全編、昔こういう所がありました。
それはそれはよかったですよチャンチャンで終わっている。『ぶらっと中村』も
似たり寄ったり。こういう本を書いている人は文章も似てくるのか、
細かくていいんだが気を許していると思わず向こうの手の内にはまりそうな仕掛けがある。
私が思うに、知識は知識として出来れば避けて通りたい本達なんだな。
貸出書籍07:『千種村物語』
小林元著:昭和59年発行…定価1,300円
久しぶりに私の探し求めていた本に出会うことが出来た。
これだから図書館通いはやめられない。著者は地元に生まれ、地元の学校の先生になり、
最後は郷土資料館の運営委員になった歴史好きの御仁。この本には千種区を通っている
有名な飯田街道から誰も知らない四観音道・ほうろく街道に至まで、
名古屋東部を通っている歴史の道7本をたどりながらソレゾレの街の変遷を
つぶさに書き綴っている。内容が緻密で、しかも今の地図に旧道の位置や
今は影も形もない池などが描いてあり、私にでも良く判るシロモノだった。
そう、私の探してた本はこういう本なのだ。嬉しくなって一気に何度も隅から隅まで
読み尽してしまった。蛇足だが、参考文献に取り上げていた本の何冊かもついでに
借りてみることにしたので、その内ここに登場すると思います。
貸出書籍08:『名古屋の街道ー道と文化』
名古屋市教育委員会著:昭和57年発行…定価3,000円
この本、タイトルがいい。だから私もたくさんの本の中からワザワザこの本を借りてきたのだ。
外表紙もいかにもという感じで実にいい。しかし、中身がイマイチだった。
『道ーその歴史地理的考察』で始まり『文学に現れた街道』、最後は『年貢の輸送と道』
なんていう超マニアックな内容がこれでもかというくらいテンコモリ。
今の私にはアカデミック過ぎてどうにも手には負えないと、ペラペラと頁をめくって
すぐ実感したんです。見るべきところと言えば『街道と川柳』の中で「一里塚 西瓜の皮で
すべる所」なんていう情けない句を見るにつけ、私の俳句もマンザラでもないと
思ったがそれだけ。『名古屋街角物語り』には何の花も実もない結果に終わってしまった。]]>
私の読書感想:4
http://tomhana191.exblog.jp/12300268/
2010-03-13T09:46:00+09:00
2013-03-09T04:35:30+09:00
2010-03-13T09:46:33+09:00
tomhana190
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貸出書籍13:『現代語訳尾張名所図会』
ブックショップ「マイタウン」編:昭和57年発行…定価6,500円
偶然にも悪の根源ダースベータに出くわした感じかな。と言っても何のことだか
さっぱり判らない人にご説明すると、『尾張名所図会』という本はもともと江戸時代後期に
盛んに刊行された地誌の一種で、寺社・旧跡の由緒来歴や街道・宿駅・名物の案内などに、
実景を描写した多くの挿絵が添えられ、当時の巡拝者の増加にともなう需要で
大いに世間に迎えられた出版物だったようだ。そして、『尾張名所図会』は全13巻もある。
郷土史に関心を持つ人々にとっては入門書となるべき史料であり、
その挿絵は江戸時代末期の尾張の様子を再現してくれて興味深いものだ。
しかし、この話は原著である『尾張名所図会』の話であって、この『現代語訳尾張名所図会』
という本とは一切関係ない。この本、赤い生地貼りでタイトルを型押しした豪華装丁本で
1冊6500円もする。その中身はというと、これまで何回となく問題定義してきた
No.4『名古屋いまむかし』No.5『熱田区の歴史散歩』No.6『ぶらっと中村』の本の大本、
バイブルにあたる本だったのである。この本から派生して普及版ともいえるこれらの本が
できたんだ。だから、オオモトである『現代語訳尾張名所図会』も糞みたいな本であることは
間違いない。今の人に何が伝えたいのかさっぱり判らない本ではある。
貸出書籍14:『狛犬学事始』
ねずてつや著:1994年発行…定価2,000円
「かつて都市で見かけた交通標語に「シートベルトみんな知ってる忘れてる」
といいうのがあった。石の狛犬もその通りであり、みんなに親しまれているわりには
注目されることがあまりなかったようです。石造美術関係の本を見ても、
野の石仏が中心で、次に石灯籠・石塔等と続き、そこで終わっている。
確かに神社等の石の狛犬のごく一部のものを除いて芸術的には見るべきものが
ないのかもしれない。しかし、各地で人々から愛され続けてきた狛犬の姿を歴史性や
地域性から調べ出すと無限に広がる楽しみがある」と冒頭に書いてあったんだが、
まさしくその通り。しかし、読んでみると学者のやるような狛犬の選別に大きな紙面を割き、
本来の人と狛犬の繋がりみたいなものや現地を見た人にしか判らないことを
もっともっと取り上げてくれたらと思った。何はともあれ狛犬に興味のある人にとっては
この本はバイブルだと言ってもいい本だ。まぁ、著者が京都南部に住んでいて
その地方に珍しい狛犬が多く残されていたことが全ての始まりだったような気もするが。
貸出書籍15『堀川端ふしぎばなし』
堀川文化を伝える会編:平成15年発行…定価400円
小冊子とでもいっていいこの本、中区の肝煎りで作られた。
内容は中区に残る神社や寺院をはじめ地域のまつわる数多くの不思議な話。
全部で31話収録されている。しかし、何にも新しいものはない。
それもそのはず尾張藩士が書き残したの『猿猴庵日記』『鸚鵡籠中記』と地理誌である
『尾張名所図会』『金鯱九十九之塵』に書いてある内容をピックアップしただけ。
どうでもいいけど、この本と以下の2冊は何故か鶴舞図書館では貸し出ししてなくて
「貸してくれ」といったら「買ってください」と言い返してきた。
しかし、こういう地元の人に読んでもらいたい本が置いてないとは、
大仰な言い方をすれば、名古屋の文化行政の遅れを痛感した次第である。
貸出書籍16:『堀川端ものがたりの散歩みち』
堀川文化を伝える会編:平成15年発行…定価400円
こんな話が載っていた「昔、ある人が犬を飼ってかわいがっていた。
犬を連れて山に出掛け木の下でうつらうつらと寝込んでしまった。
突然犬が吠えかかり、着物のすそを喰わえて引っ張った。
主人は自分に食い付くのではないかと刀を抜いて犬の首を打ち落としてしまった。
犬の首は木の上に飛びあがり主人を呑み込もうと伺っていた大蛇に噛み付いた。
主人は犬の忠誠を知らずに過って犬を殺害したことを後悔して犬御堂を建立した。
古渡交差点の辺りに在りし日の犬御堂は埋没してしまっている。
犬の忠節を知らせる逸話とは係わりのないように、何台もの車が走り抜けていく」。
まだ内容的には『堀川端ふしぎばなし』よりはマシかな。]]>
私の読書感想:8
http://tomhana191.exblog.jp/12300252/
2010-03-13T09:40:00+09:00
2010-03-13T09:41:44+09:00
2010-03-13T09:40:39+09:00
tomhana190
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戦争書籍2:『日中戦争』
◆平塚柾緒編著 ◆1995年発行 ◆定価2,400円
遠く侍の時代は別にして、日本が係わった明治以降の戦争は中国を抜きにして語ることはできない。明治27年からの日清戦争はもちろんであり、明治37年からの日露戦争も相手はロシアであったが戦争の舞台となったのは中国大陸であり、その原因も中国における日露の利害の衝突にあった。大正に入り、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発し日本は当時の敵であったドイツの祖借地、中国の青島をいち早く占領する。昭和に入り、軍事立国を目指して着々と軍事力を増強してきた日本はついに領土と資源獲得が日本民族の生き残る道だとして満州事変を起こし、満州国という傀儡国家まで造ってしまう。このように日本の近代史は常に中国問題とともに歩んできた。
過去の戦争に「侵略」の2文字を使うことに抵抗を示す人達が必ず口にする言葉に「それではあの戦争で死んでいった英霊達が浮かばれない」というのがある。また「あの戦争がどんな戦争だったか、当時のワシラは知らなかった。ただ戦場ではこちらも撃たなければ相手に撃ち殺されてしまうから撃ちまくったよ。よく映画や本なんかでは死ぬ時に『天皇陛下万歳!』って言って息を引き取ったなんてあるけど、ワシは聞いたことがなかったな。たいていは『かあちゃ〜ん』と母親や女房のことをつぶやいてしんでいったな」この写真集にはそうした日本兵の最期のカットは1枚もない。残されていないからだ。戦時中の日本軍は銃後の国民が「聖戦」に疑問を持ったり戦意を挫くような写真は事前検閲で総べて没収してしまったからである。
朝鮮併合に続く満州事変、支那事変、そして米英蘭と戦った太平洋戦争で日本が占領した東南アジアや南大平洋の各諸島への派兵は明らかに侵略以外のなにものでもない。ちなみに辞書で「侵略」を引いてみると「ある国が他国の主権・領土・政治的独立を侵すため武力を行使すること」とある。日本の韓国や中国への武力進出がこの辞書の説明にある行為に該当しないのだろうか。どのような文書や資料を開いても韓国や中国、東南アジアの国々から「日本軍を招聘したい」と言ってきたという記述は見当たらない。日本側が一方的に進出していったのである。この一方的進出こそが辞書にある「侵略」行為に他ならないのである。先頃の国会決議では「欧米諸国だって日本より先に侵略してたじゃないか。何も日本だけではなかったのだ」と読み取れる内容もある。それは事実であろうが、だからといって日本の行為が正当化されることはないし免罪されることにはならない。
戦争書籍3:『タッポーチョ』
◆D・ジョ−ンズ著 ◆昭和57年発行 ◆定価1,000円
本書は第2次世界大戦における日本の敗戦を決定的にしたサイパン島陥落の後、同島を占領したアメリカ軍の大軍を向こうに回してゲリラ活動を続けた大場隊の軌跡を小説化したものである。著者はあとがきでこういっている「私は今日の日本において1945年以降に生まれた人達の間であの戦争について余りにも知られていないことが残念でこの小説を書いた。何故なら、その世代の人達の多くは戦争のことをいうのに恥じる感覚があること。そしてその恥じの感覚は事実に基づいたものではなく知識の欠如に基づいたものでした。この人達は自分達の父や祖父や叔父達が自分達の国を守るために戦って精神について何も知りませんでした。もっと驚いたことは父達がしたことに何の尊敬も払っていないことです。私はこのことをとても残念に思います。日本の兵隊はよく戦ったのです。彼等は世界の戦士達の中でも最も優れた戦士達でした。彼等は自分達の国のために生命を捨てることを恐れませんでした。」といっている。
本に書かれた大場大尉も「実際の我々の洞窟抗戦の生活はもっと暗く不衛生きわまりなく陰湿で、こんなに勇ましく米軍を手玉にとったようなことだはなかった。しかし米軍からパンを盗んできたことも、大掃討があったときのことも、堀内一等兵の活躍や数々の戦闘も、野営地の中で神憑かりになる兵隊が現れたことも、全て事実である。その意味では我々のゲリラ戦の経過がこれほど具体的に描かれたこと今までない。何故なら我々が書いたら自分等のことはもっと控えてしまうだろうし、他の人のこともこうは書けなくなる。そういう意味では、アメリカ人だからこそ、そしてサイパンで我々と戦った敵だからこそ書けた小説ということになるのだろう。この本がどのように読まれるかについては私には懸念がある。しかしこの本がかつては敵同士だった私達の戦後の長い交流を経て、敵の目で書かれた我々の戦いの記録であることは間違いない」といっている。この本の最後はこんな文章で終わっている。「1945年12月1日午前9時、実に512日にわたって自分達を出し抜き、あるいは裏をかいて我々を翻弄し続けてきたこの男と私は今、サイパンでの長い戦いを止めようとしている…。ルイスは右手を下ろすとその日本の英雄が差し出す軍刀を受け取るために両手を伸ばした。」と。]]>
私の読書感想:10
http://tomhana191.exblog.jp/12300231/
2010-03-13T09:34:00+09:00
2010-03-13T09:36:21+09:00
2010-03-13T09:34:49+09:00
tomhana190
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戦争書籍6:『赤紙』男たちはこうして競戦場に送られた
◆小沢眞人+NHK取材班 ◆1997年発行 ◆定価2,200円
戦前、日本男子は20歳になると全員徴兵検査を受けた。日本の徴兵制とは、まず市町村の各役場が徴兵検査を受ける予定の若者の名簿を事前に作成して最寄りの軍に提出することから始められた。要は各役場にあった兵事係が戸籍簿に基づいて対象となる徴兵適齢者の名簿を個人ごとに作成した。この中には故郷を離れて東京、大阪などで暮らす者も含まれた。そのような者については職場や市町村に通達してその所在を確認した。そして兵事係は検査の1年前から戸籍簿を確認し、該当者を抽出した。この際、大学生や陸海軍志願兵を除外し、6年以上の禁固刑や懲役に処せられた犯罪人も対象リストから外した。犯罪者を対象者から外すのは異論があるかも知れないが当時の軍の考えは違っていた。軍に入隊できる者は素行も健康状態も良く、国民としての義務を積極的に果たす「選ばれた国民」という意味合いが強かったという。
徴兵検査の対象に選ばれた者について兵事係は「荘丁名簿」を作成し軍に提出した。そして荘丁名簿に基づいて徴兵検査は全国一斉に毎年6月(その後2月に変更)に実施された。検査では身長体重を計り、軍医の診察を受けさせた。そして健康状態によって甲乙丙丁戊の5段階に振り分けられた。甲は兵士に適任、乙丙は甲に準じ、丁は不合格、戊は判断を保留というものであった。甲種合格は本人はもちろん家族や村にとっても名誉とされた。検査の最後に軍人である徴兵官から「○○、甲種合格」と1人1人に言い渡され、それを大声で復唱しなければならなかった。徴兵検査そのものは当時成人式のようなものに受け止められており、1人前の大人の仲間入りを果たす儀礼ののようなものだったという。戦争がない時や検査の始まって間もない頃は甲種合格の中から抽選で一部の者が軍隊に入り、それ以外は等分の間入隊を免除された。
徴兵制度が導入された明治時代は徴兵検査を受けた約30人に1人の割合でしか軍隊には入隊していなかった。というのも当時は開業医や外国留学生、師範学校や中学以上の卒業生のほか、家督を継ぐ長男など免除の特権が数多くの者に与えられていた(当時、国民と軍との関係は昭和の時代ほどには密接なものではなく、兵役に服くする人は一握りでしかなかった)。そのために徴兵逃れの養子縁組も頻繁に行なわれたという。それ以後、満州事変の頃までは5〜6人に1人の割合でほぼ一定していた。しかし、日中戦争開始後から急激に増え、以後徴集率は上昇する一方。大平洋戦争末期には何と70%にもなっていた。実際この時期、甲種合格の基準も大幅に緩められた。視力や体力などでこれまで乙種合格とされたような人も甲種合格として採用された。また、乙種合格者でも現役兵に採用されることが増えていった。
徴兵検査で振り分けられた若者達は憲法の定める兵役義務(現役兵、予備役、後備役、補充兵、国民兵役など様々なカタチに分離され満40歳まで、終戦間際には45歳まで)をそれぞれの区分けに従がって務めることとなった。甲種合格で現役兵を終えたばかりの予備役(27歳4ヶ月まで)が軍隊にとって最も貴重な戦力であった。反対に乙、丙にまわされた第2国民兵役者は戦力としての期待は低かった。そうして軍は戦争が始まると優先順位に従って次々と兵役対象者である一般国民を赤紙を使って召集していった。
日本の軍隊は下は二等兵から上は大将まで17種類(元帥は元々あった位ではなく名誉職であった)に別れていた。その軍隊を構成する兵士の種類は職業軍人(士官学校を卒業したもの)・志願兵(一般の国民から希望して入隊する者で20歳の徴兵検査以前の者も対象)と兵役の義務を負った一般の国民の兵士からなっていた。また、国民の中から選ばれて兵士になった人達は2種類に区分された。徴兵検査の結果入隊する現役兵(20〜22歳の若者)と赤紙によって召集された召集兵(20から40歳までの兵役を務める間、年齢を選ばなかった)である。戦争がない時、軍隊は主に職業軍人と現役兵を中心に構成される。しかし一旦戦争が始まると人員の不足分を赤紙を発行することでまかなっていた。また、簡単に兵士を集められるので日本の軍隊では無理な戦闘や無駄な戦闘が多くその分兵士の消耗率高かったという。
国民を兵士として戦場に送るため、国中を挙げて新たな体制を作ることは20世紀に入った欧米諸国の共通した流れであり、日本もその流れに同調したに過ぎない。だから赤紙は日本独特のものではない。今日世界は「市民戦争」の時代に入ったといわれている。1945年を境に大規模な国家同士の全面戦争は姿を消し、内戦、テロといった小規模な軍事衝突が多発している。運よくまだ第3次世界大戦は起きていないが、戦争は形を変えてより日常的なものになっている。現在の日本は自衛隊という世界的にも有数な軍隊をもっている。そして実際に戦争となれば、兵士をどう調達し訓練するのか、武器や資材の生産体制はどうするのかという極めて現実的な問題に直面する。その時、我が自衛隊は、そして日本国政府は過去に起こしてきた同じ轍をまた踏むのであろうか。私個人としては52歳という年齢からも障害手帳をもらっている身からしても今後召集されることはないと思う。しかし、平和憲法を持つ日本であっても実質的に軍隊が存在している以上、今の若い人達には関係ないと言い切れない、戦争に否応なく巻き込まれてしまう現実が絶対ないとは言い切れないような気がする。その時あなたはどうする?逃げますか?逃げれますか?
戦争書籍7:『日本の軍隊』
◆飯塚浩二著 ◆昭和43年発行 ◆定価790円
次に引用する記録は一初年兵が入営以来秘かに便所に隠れて書き綴った日記からのものである。そこには「午後は少し休んで又演習、教官の顔色が違う。助教助手の面相も凄くなっている。事毎に怒る。殴る。これではとても演習どころではない。整列と同時に兵器を倒した奴がいて、教官に10発のピンタで総員は班長のピンタ、次にY上等兵からまたピンタ。何のことはない、コッチを向いてもアッチを向いても殴られ通しなり、情けなくなる」「使役中に2班の知らぬ上等兵にピンタを取られたり、動作の大きいことなり」「昨日は内務検査があり、この日記帳が見つかり内容まで発見されそうになった(細かい字で判らぬように書いてあったので逃れた)。慌てて昨日は日記を書かずにしまった。教官は精神問題がもっとも重点なのでこの通えいの日記では危ないから、もう近い内に家へ送り返してしまわなければならぬ。毎日少量の飯にて空腹の限りを尽している。毎日ケンカ腰の班長の前で小さくなっているのは全く辛い」こんな文章が延々と続く。しかしこれは空想の世界の日記ではない。日本に現実にあった世界なのだ。
この本、少し古い本なので記述が合わなくなっているところが多々あった。しかし2.戦時中の一初年兵の日記というところで思わぬことが書いてあった。曰く「我が国の旧軍隊においでピラミッドの一番下積みに置かれた初年兵の惨めさはひとつの伝説になっていた。抵抗の許されない立場に縛り付けられている者をしばしば単なる気紛れや腹いせとしか考えようもない状況で殴ったり蹴ったり、精神的屈辱を加えたりするのだから、どう見ても男らしい振舞いとは思えぬのだが、それにもかかわらず軍隊というものはそうしたところだとして怪しまれもせずにいたのが、我が国の現状であったようである。人間性の弱点といっただけでは済まされぬものがそこにあるだろうし、そのような有り様を最後まで容認し続けた旧日本社会の精神的構造にも問題はあった」と。それに日本の軍隊の特徴としてこんなことを指摘している。曰く「旧日本軍隊は兵士からは無論のこと昇降からも批判精神らしきものはその芽生えの段階で徹底的に抜き取ってしまうという努力において他に例を見ないほど周到であった。すなわち、軍学校の教育においては「批判的な点を徹底的に叩く、それが非常に大きい要素をなしていた」といわれ、兵の教育においても「究極の目的は要するに軍隊というものは上の人の言う通りにならなければいけないものである。批判的であるとか、反抗的であるということはいけないのだ。何でもかんでも絶対服従だという観念を植え付ける」ということに重きをなしていた。批判的精神に対しそのように敵意を燃やし、その前途にかくも懸念であったのは旧日本軍隊を支える思想原理が批判的精神の前には全く無力であったに他ならない。軍の首脳部はいち早くそのことを自覚していたがゆえに、そのように周到な対策を講じたのである。しかし、旧日本軍隊がその思想面においてそのように無力であったということは取りもなおさず、現代の日本社会を支える思想原理もまた批判的精神の前には全く無力であり、無力であるがゆえにそれを敵視するするものであった、ということに他ならない」と。旧日本軍隊から今の時代の問題点が浮かび上がってくる。]]>
私の読書感想:12
http://tomhana191.exblog.jp/12300219/
2010-03-13T09:29:00+09:00
2010-03-13T09:30:29+09:00
2010-03-13T09:29:22+09:00
tomhana190
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戦争書籍10:『ルソン戦記』
◆川合武郎著 ◆昭和62年発行 ◆定価1300円
この本の最後はこんな文章で終わっていた。曰く「昭和20年8月31日、この日我々は山中にある地点で兵団司令部と連絡を取り合うことにしていた。地図も持たずに初めての土地で、しかも山中である。当時の我々の方向感覚は動物的だったのだろう。私は8月31日を目指して出発した。昼間は危ないので夜間に歩いた。百鬼夜行というが猿だか鳥だか判らない得体の知れない叫び声が谷から谷へ突き抜けていった。目の前の木立が人影に見えて思わず足がすくんだ。夕暮れから歩き出して夜半ちかくになった頃、ポツンと雨が頬にあたった。木立を通して見る夜空は漆黒であった。風もなく飽和点に達した水蒸気が一面に立ち篭めている感じだった。
「雨だな」「そうらしいですな」余分なことはしゃべりたくない。「しばらく休もうか」疲れた体を寄せ合うような木立もなければ小屋もない。どこにいても疲れ方は同じである。私は周囲に比べて少しでも高い場所を探した。南方のスコールは地上に流れをつくるからだ。その時、私が持っていたのは1m四方ぐらいの携帯天幕1枚だった。私は頭からそれをスッポリかぶって仰向けになった。もちろん足の方は外にはみ出していた。「ボッツ、ボッツ」携帯天幕を叩く雨の音が大きく聞こえた。始めはポツンポツンと聞こえていたのが次第にバタバタと聞こえるようになった。むき出しになった足が脚絆を通して濡れてきた。時々天幕を下から突き上げてやらないと何処かに水が溜まってしまう。
たった1枚の天幕が次第に重たく感じられた。顔にベッタリかぶさっている天幕で息苦しくなってきた。眠れるはずがない。私はイポで戦って以来のことを考え続けていた。多くの部下を失ってしまった。私の体力も既に限界を越えている。もう失うものは何もない。力は全て出し付くした。後は神が私の生命を召されるだけである。この達観が私の目を閉じさせた。8月31日、私は予定通り定められた地点に到着した。そして戦争が終わったことを知らされた。」とある。この本と次の本は何にも変わらない。2つあって1つの主題で書かれている。それは戦争ほど人間の本質を卑しめるものはないということ。これに尽きる。
戦争書籍11:『ルソンの砲弾』
◆川合武郎著 ◆平成11年発行光人社NF文庫 ◆定価700円
この本にこんな記述がある。曰く「昭和20年3月12日、振武集団長はみずから第一線に立ち、絶対に取られたくない振武山攻防の戦闘指導にあたっていた。せっかく企画した第2次反撃もその効なく、特に小林兵団に関してはいささかの好転もなく、逆に力づくで押し寄せてくる米軍攻撃の前に22日夜、集団指令部は振武山を引き払い、そこから東方8kmの巌山に後退することになった。その興奮状態のところへ福本大尉は到着した。小林高級参謀は福本大尉の顔を見るや御苦労だったの一言もなく、いきなり百雷が一時に落ちてきた。「本丸が危ないという時に河嶋兵団は何をしているんだ。砲兵の1コ中隊ぐらい応援に出すのが当然じゃないか」と小林参謀は猛り狂ったようにわめき散らした。「私も軍人になってから上官に叱られたことは何回かあったが、あんな屈辱的な叱られ方をしたのは初めてだ」福本氏は後述する。口答えすら許されない軍人社会において無言で立っている福本大尉を小林参謀はますます憎らしくなった。
「貴様、君の御馬前で討ち死にするということを忘れたかッ」吐き捨てるように言う。イポ陣地の正面にも敵の強圧がかかりはじめた今日、河嶋兵団が砲兵1コ中隊を他に出すか出さないかの問題は河嶋兵団長に対して要請すべき重みのある問題である。一歩譲っても砲兵連隊長に話を付けるべき問題である。それを使者として派遣された砲兵の一中隊長に言いたい放題言って、自らの溜飲を下げる。福本大尉は理不尽な叱責を聞き流しながら上ってきたイポ川の状況を思い起こした。「いや参謀殿、ナポレオンでも越せなかった山があります。人間だから上がってこれたのであって車輪の付いた重い火砲をしかも馬で引っ張って上がってくるということは到底不可能であります」福本大尉はブン殴られてもいいと思って発言した。「つべこべ言うな。日本軍に不可能はない」参謀は聞く耳を持っていなかった。」とある。
また「河嶋兵団の兵力数は戦闘開始前15000名だったのが20年3月上旬には9500名、5月中旬には4000名になり、終戦時には750名にも減っていた。私はこのおびただしい人員の消耗は3つの敵によってもたらされたと考えている。まず第1に敵兵である。米軍、米比軍、最後には武装した住民がイポ陣地を脱出してきた日本軍を待ち伏せ攻撃し、あるいは積極的にパトロール攻撃を行なってきた。しかし、敵は日本軍掃討の米軍、米比軍だけではなかった。同じ日本軍が油断すると敵になった。飢えというものは人間の理性をも狂わせた。第2の敵は飢えである。病人を殺して肉をそいで食べているところを通りかかった将校が見つけて射殺したという地獄さながらの話も伝わってきたが真相を確かめた話ではない。夜、腐乱死体の横に寝ていて、それにわいた蛆虫を食べに寄って来る猿を撃って、その肉を喰った話は実話である。
第3の敵は疾病である。これは飢餓と密接な関係にある。まず襲ってくるのは脚気だった。ついでマラリア、デング熱、赤痢、いずれの病気も食糧があれば死なずにすんだ病気である。脚気というのは重病になると足が腫れてくる。そして生きながらにして腐ってくる。すなわち壊死である。栄養失調も第3の敵に包括されるべきだろう。疾病はみな因果関係で結びつき、結局、時間とともに人を死に追いやる。戦傷と異なり疼痛に苦しむということがなく、終わりは意識不明のまま迎えたというのが、救いといえば唯一の救いだった。」とある。「自他共に戦争のプロを自認する参謀がこんなことを信じているようではお先真っ暗だ」と他人事のようには言ってられない。何故ならそのお先真っ暗なヤツが戦場で生きるか死ぬかの運命を全て握ってるから始末が悪い。]]>
私の読書感想:14
http://tomhana191.exblog.jp/12300190/
2010-03-13T09:21:00+09:00
2010-03-13T09:22:54+09:00
2010-03-13T09:21:44+09:00
tomhana190
未分類
戦争書籍No.14:「死の島」ニューギニア
◆尾川正二著 ◆1998年発行 ◆定価752円
「前人未到の大自然の中で東部ニューギニア15万余の将兵は連合軍との死闘を演じつつ、灼熱と闘い、悪疫と闘い、そして飢餓と闘わねばならなかった。大平洋戦争中、最も悲惨な退却と戦史に記された戦場を凝視しながら兵隊たちの生存を賭けた闘いの中で、戦争と人間の相克を描く感動のノンフィクション」と扉のカバーに書いてあった。飢餓というタイトルにこんな文章があった。曰く「戦場は絶え間ない戦いの場である。敵との、自然との、悪疫との、そして自分自身との。さらに加えて飢餓との戦いがあった。木の芽、木の芯を食いながら山の中を彷徨い歩く。飢餓は人の心を荒ませ、固く自分の殻の中に閉じ込めてしまう。ものを言うこともなくなり、笑いを忘れる。何ものにも関心を示さなくなり、カラカラに乾いた胃袋に向かい合ったまま生命の火を凝視し続ける。
夕暮れ先頭の方に異様などよめきがあった。廃園にぶつかったというのである。どのような宝庫が待ち受けているのか、我ながら生き生きとした気分が突き上げてくるのを抑えかねた。思わず急ぎ足になる。見ると背嚢を下ろし、銃を捨てて乱入している。生きのいい声が一杯にコダマしている。掘り残しのイモを掘る者、青いパパイアを落としている者、それは活気に溢れていた。サトウキビを見つけて帯剣で叩き切った。しゃぶった。噛った。覚えず唸り声が出るほどそれは全身にしみていった。飢えた狼ーそれが陳腐な形容とは思えなかった。ガツガツ噛っている自分が何ともあさましい気がしてくる。てんでに獲物に殺到し、歓声を上げている。今の刹那の喜びに我を忘れた楽しい風景だった。ぽっかり浮いた雲を見た。遠く霞んだやわらかい自然を眺めた。笑いさざめいて見える。雲、それから一望の風光をキビと共にしゃぶっていた。何かまともに食えるものがあるという喜び、それがそれほど心の余裕を生み出すものなのか。この景色を背景にしてキビを噛っている一人の男を眺めて見ることさえできるのだ。今しがた暗い雲の中に頭をつっこんで固く感情を閉ざしていたものがである。そんなことを考えながら口の回りを甘い汁で濡らしていた。食うということがこれほど人間の神経を支配していることを歓喜のさざめきの中に確かめていた…」
また、奈落ではこんなことが書いてあった。曰く「欠乏の生活は我々を奈落の底に追い込んでいった。飢餓道の責め苦に悶え、地底の泥土にあがいた。飛ぶ虫、這う虫、枯れ木に巣食う虫、手当りしだいに食膳に供せられた。人間の生活ではありえなくなった。振り回した棒切れがうまく当たってシッポをビリビリ震わせているトカゲを引っ付かみざま口の中に放り込む。正常な神経の耐えれる世界ではない。形容すべき言葉を知らぬ。一匹のイナゴ、それにどれだけの栄養価があるのか、と考える。一本の茸、一枚の葉、食道を通る一つ一つが生命に直結する貴重なものに思われてくる。夜、飯盒でイモを煮ているとカエルが飛び出してくる。それを引っ付かんで飯盒の中に放り込む。「おい、御馳走だ。お前の飯盒の中にカエルを入れといたぜ」「おう、そうか。そりゃすまんかったな」心からの感謝の言葉なのだ。こんな会話の成り立つ場を何と言えばいいのか。光の射さない世界と言う他はない。…」と続く。
理性の圏内においてのみ、美徳も悪徳も存在できる。理性の圏外にはみ出したところで行なわれた行為が戦争であるとするなら、美徳も悪徳も所詮さざ波にすぎない。1/261のその一名というまさに奇跡的な生還をした筆者の、その矛盾の中からたとえさざ波であろうとも、人間でありたいと願いつつ死んでいった戦友たちの真意を伝えたいというのがこの手記の目的なのである。
戦争書籍No.15:ガダルカナル兵隊戦記
◆牛尾節夫著 ◆1999年発行 ◆定価895円
「年齢32歳、妻子ある老補充兵はなぜ名も知らぬ孤島に立ち、なぜ飢え、なぜに朽ち果てねばならないのか。戦争のもたらす悲惨の限りをなめ尽し、身の非運を呪い嘆きながら、再び故郷に相見ゆる日のあることを祈るほかなかった帝国陸軍最下級兵士が飢餓と悪疫の戦場ガダルカナル島の原体験を綴る話題作」と扉のカバーに書いてあった。全編悲惨のカタマリだったが、「あなたとは死にたくない」というところにこんな文章があった。曰く「私の幕舎から10mの場所に、部隊長副官O中尉の幕舎があり当番兵が1人付いていた。部隊長は既に上陸第1日目に戦死されているので、このO中尉が中心となって我が部隊の指揮をとっているのであろうか。他には将校の姿はなく新部隊長が就任したとのことも聞かないから、そのあたりの指揮系統は我々末端兵にはいっこうに判らない。
部隊本部O中尉の当番兵は我々と同じく昭和15年8月1日に広島工兵隊に召集された補充兵である。年齢も30歳余、長身面長で色白く地方での教養のほどは判らなかったが、無口で温厚な紳士といったタイプである。私は彼とは同じ隊ではなかったので一度も口を交わしたこともなく、名前も知らない。お互いにひとり歳をとり、家庭も持ち、分別もつきかけ、人生もこれから油がのろうという時に突然の役場からの一枚の赤紙によって、全ての人生計画を断って隔絶された軍隊生活を余儀なくされた同年兵である。そして我々同年兵は年齢に関わりなく不遇だった。入隊2年4ヵ月の現在まで、いまだに初年兵待遇で隊内の炊事、掃除、その他雑役使役に甘んじ、自分より10歳も年下の班長、将校などの当番兵に当てられ気の休すむ時間もない始末だ。
ときおり、お互いに見合わす同年兵の目の中には、その身になった者にしか判らない共通した光を感じ取っていたものであった。今日も彼は1人の副官将校のために、そして私はわが隊の8人のために、現在としては最も重要な日課仕事である炊事をするのである。朝、例のごとく私は飯盒を3コづつ両手に下げて幕舎を出た。海辺の道で帰ってくる彼に出会った。痩せた彼の全身と何か訴えるような目付きとが今までになく異様に感じられた。翌日ついに彼は炊事に立てなくなった。過労と栄養失調であろう。その朝、彼等の幕舎からO副官が彼に起床を促している声が聞こえた。「おい当番、どうしたのだ」彼は伏したまま両腕で床を支えて頭を上げるが、苦しいのかまた頬を毛布にふせる。
それから私達の朝食もできて、向かい合った幕舎の入口に腰を下ろして8人の朝食をはじめた。副官の当番はまだ起きない。我々の朝食が刺激を与えたのか副官は今度は激しく当番を起こしはじめた。「おい起きろ、起きて炊事をしろ。それがお前の任務ではないか」と激しい口調である。彼は、最初は何度も起き上がろうとしたらしいが、精魂尽きたのか動かない。その痛々しい背に向かって激しい言葉は続く。「貴様はこの俺がこれほど言っても判らぬのか」副官の声は次第に大きく周囲に響き渡るが彼には全然通じない。もう見るにたえない。副官の大きな声はなおしばらく続いた。私は叫びたかった。「もう止めてください。今の彼にはどんな激励の言葉よりも、1分でも早く休ませてやってください」と。
O副官は陸軍仕官学校出で軍人を一生の職とする人である。私は思った「うん病気か無理をさせたな。病気になった以上はしっかり休養せよ。俺のことなんか心配せずに寝ておれ」くらいの慰めの言葉は出ないものだろうか。しかし、最後までそんな意味の言葉は聞かれなかった。というより、その日のあの激励以来、もうその当番兵をダメだと判断したのか、まるで掌を返したようにその後は全然取り合わず、同じ幕舎に隣り合って寝ているのに、声も掛けず様子を見てやる姿さえ見かけなかった。その2日後に、その当番兵は横になったまま黙って死んで逝った。が、O副官は顔色も変えなかった。またしても戦争というものの非情さを身近に感じさせられた時だった。もの言わざる一当番兵の死、だが、その日も“ガ島戦線異常なし”であろう。こんな話が延々と続く。]]>
私の読書感想:6
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2010-03-13T09:10:00+09:00
2013-03-09T04:28:48+09:00
2010-03-13T09:11:00+09:00
tomhana190
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貸出書籍21『小さき社の列島史』
牛山佳幸著:平成14年発行…定価2,500円
いみじくもはじめに「本書の目的はややヘソ曲がりとの批判を受けるかもしれないが、
地域社会に忘れ去られたように鎮座する小社を対象に、その成立事情や存在形態、
さらに変遷過程などを歴史的に解明しようと試みたところにある」とあるように
誰も知らないような偏った内容のオンパレード。中に出てくる「ウナネ及びウナネ社について」
というタイトルを見てブッ飛んでしまった。実質的に読んだのは5ページくらいのものか。トホホ…
貸出書籍22:『八幡神とはなにか』
飯沼賢司著:平成16年発行…定価1,500円
内容的にはむつかしい本であった。「749年、西国の果て九州宇佐の地から
八幡神が入京してきた。この神は突然歴史の舞台に出現してきた新しい神であり、
まっ先に日本の神と仏を結ぶ神として神々の上に君臨するようになった。
この神は恐ろしい人を殺す軍神の顔から慈悲に溢れた里の鎮守まであらゆる顔を持つ
不思議な神である。現在日本には小さなものまで含めると4万社以上の八幡宮があるが、
この神はもっとも身近な神であると同時に最も民衆から遠い国家神でもあった。」
というのがこの本の内容。神仏習合という言葉の意味は知っていても、
その内容となるとやっぱりどうしたものかチンプンカンプンだった。
貸出書籍23:『狛犬事典』
上杉千郷著:平成14年発行…定価5,000円
著者は神職育成学校の皇學館の理事長で岐阜県下呂町に狛犬博物館を設立した人。
「狛犬とは何か。どこから、いつ頃来たのか。意外にわかっていない。
私はこの狛犬に興味を持ち、調べる内にすっかり虜になり、狛犬学と呼ぶには
おこがましいが、一応体系づけてその成果の一部を以前、神社新報紙上に3年間連載した。」
とはじめに書いてあるように、全国にあるありとあらゆる狛犬を対象にして書いてあるのだが
余りに膨大なジャンルを網羅しているので、ここぞといった熱い思いが
私には伝わってこない気がした。読み終わって何故か疲れてしまった本だ。
貸出書籍24:『絵図に見る伊勢参り』
旅の文化研究所編:平成14年発行…定価2,000円
だんだん分不相応な本に手を出したんじゃないかと反省している。言い訳ではないが
私が読みたいなと思う郷土にまつわるような本は何故かことごとく貸出不可。
在庫にはあるのに借りてこれないという消化不良な状態が続いていて、
借りてこれる本の中からついこのような本を借りてきて、いざ事務所で読もうとすると
チンプンカンプン全く意味不明な立場に追い込まれている。
この本も「何故こんな内容の本をワザワザ出そうと思う人がいるんだ」という
タダタダ呆れてしまう本。何時ものように内容を抜粋して「コレコレコレコレ」と
蘊蓄を披露する気も起きない。ページを見開いてものの10分、私としては
「もう、返していいな」と安堵ともつかない妙な納得をしていた。 ]]>
達人への道:2
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2010-03-13T09:02:00+09:00
2013-03-08T21:53:13+09:00
2010-03-13T09:02:52+09:00
tomhana190
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ここ地下鉄名城線「金山」駅は地下鉄名城線の駅であり地下鉄名港線の始発駅でもある。
またJR東海道本線と中央本線、名鉄名古屋本線が接続した駅、
その名も「金山総合駅」というのが正式名称らしい。元々はそれぞれ駅舎を構えて
(名鉄は少し離れた位置に「金山橋」駅を、JRは東海道線の「金山」駅を新設した)いたのだが、
1989年に開催された世界デザイン博覧会を契機に総合駅化された。
しかし、名古屋においてこの総合駅という名前はここだけ。地下鉄名城線とJR中央本線と
名鉄瀬戸線が接続している大曽根駅も、もちろん地下鉄東山線と桜通線、JR東海道本線と
中央本線と関西本線、名鉄名古屋本線、近鉄名古屋本線が接続している
名古屋の中心である名古屋駅ですら総合駅の名前はない。
金山だけ駅名に「総合」という文字をワザワザ入れたのか。そのセンスがギョウギョウしくて
私なんかは理解できない。さすが大いなる田舎名古屋の為せる技なのかな。
写真は金山総合駅のメインストリート
そんな金山のランドマークとなっているのが1999年に完成した駅に
隣接した31階建ての金山南ビルだ。このビルには名古屋ボストン美術館がある。
知らない間にできたこの美術館、アメリカのボストン美術館との提携によってできた美術館。
展示品は全てボストン美術館からのレンタルによって賄った名古屋としては
一切所蔵品を持たないという異色の美術館なのだ。要は本家アメリカ・ボストン美術館にある
約50万点もの所蔵品が代わる代わるやってくるいわば神社の出店にみいなところなんだ。
ここまで読むと何だかとってもいい美術館のような錯角をしてしまうのだが、そ
うは問屋が卸さないのが世の常。何が問題かというと当然所蔵品がタダで借りられる
わけではない。名古屋側はアメリカのボストン美術館に対し寄付を20年間続けることを
契約書に明記しているらしい。ところが入場者数が少ないのか寄付の金額が膨大なのか、
その両方が重なり合っての結果なんだろうが当初の契約の半分、即ち10年間で寄付を
打ち切ることを検討しなければならないほどの状況らしい。ということは1999年に誕生したから
2009年までということになる。まだ検討段階なので今後入場者数が増加すれば、
また状況は変わると思うがそんなに甘いもんじゃないだろう。
またしても責任を取らない役人の垂れ流しにあって結果、
閉館に追い込まれてしまうんだろうな。行くなら今の内という話。
写真はボストン美術館のある金山南ビル
名古屋ボストン美術館のある金山南ビルから目と鼻の先、金山新橋南交差点の南西カドに
「東・右=なごや、木曽海道 南・左=さや海道、津しま道 西・右=宮海道 左・北=なごや道」
と刻まれた道標が残っている。この道標は文政年間に建てられたもので
「街道」ではなく何故か「海道」と表記されている。もともと「東海道」「西海道」など
行政の単位として使われていた「海道」という言葉が次第に道路を表す言葉として
使われてきた過程が判っておもしろい。その交差点から200m程行くと“金山”の
地名の由来ともなった金山神社が表通りから1本入った閑静な場所にある
(木々が鬱蒼としているので誰でもすぐ判る)。熱田神宮修理の鍛冶職であった
尾崎善光という人が自分の屋敷内に金山彦神を勧請したのが起源といわれている。
また近くにある伊勢山中学校遺跡から5世紀前半のものとみられる非常に珍しい鉄挺
(鉄の半製品)が出土していることから、この辺りでは早い時期から尾張氏が鉄を生産し、
力を蓄えていたのではないかと考えられている。またこの神社、尾張鍛冶発祥の地とも
言われており現在も金属業者の信仰を一心に集めているとのこと。
境内にある大きなイチョウの木がとにかく圧巻だ。私が行った時はお参りする人もいなくて、
これ幸とばかり結構思いきったことをしようと思ったがこんな身体ではそうもいかず残念。
しかし拝殿の奥の方に木製の可愛い座敷狛犬の影がチラッと見え、
すかさず写真に撮ったんだが帰って来て事務所で確認するとブレていて定かでない。
まさしく幻の座敷狛犬となってしまっただワン。
写真は佐屋街道の分岐点に立つ1821年製の道標
神社といえば、もうひとつ有名な神社がある。「金山」駅から北西に800m程行った所に
闇之森(くらがりのもり)八幡社というホラー映画に出てきそうな名前の神社がある。
この神社、昔から人々の話題に登るほどの有名な神社だったみたいで、
ここにある御手洗池には片目の鮒と尻切れ田螺の話が残っている
。話の内容はタワイもないことなので割愛するが他にも鎮西八郎と称せられた源為朝と
その子息である義次の不思議な話とか枚挙にいとまがない。そうしてココロ高ぶる思いで
訪れた闇之森八幡社であったが、想像と現実のギャップに「またなの!」の思いひと塩。
境内の大きさといい無造作に置かれた各種施設といい「神社をやれば何とかなるだろう」
と長年、漫然と営んできたソウロウのところと見た。これでは私でも後が続かない。
救いといえばココの拝殿前にいた狛犬。他のとは何かケイロが違うよう。
立派なんだが何か恐ろしい。ことの真実を調べようにも奉納年月が判読できなかったので
何ともいえずこれまた残念。まぁ「一度は訪れる価値のある神社だ」ということにしておこう。
写真はちょっと珍しい狛犬
ある定まった月齢の夜に寝ないで遅い月の出を待つ行事(19夜待ち、23夜待ち、
26夜待ちなどが知られている)を月待ちというのだが、月の神である月天子の本地仏である
勢至菩薩やそれを含む阿弥陀三尊を本尊としてして祀る場合が多いという。
金山駅から150m程南に行った所にある大悲山観聴寺。ここにある月待供養碑は
1596年・1630年・1639年の銘のある3基の石塔である。この内1596年のものは
9月23夜の月待ち供養のために10人の領主が共同して建てたものであり
収穫祭的な意味もあるのであろう。1639年のものは庚申待ちの供養も兼ねている。
いずれにしろ月待ち信仰を碑石に表わしたものとして民間信仰を知るうえでの
貴重な遺産となっている。また、この寺院には月待ち供養碑のほかに室町時代につくられた
2体の鉄地蔵が安置されている。460年も前の鋳鉄の技術は極めて高く学術的にも
大変貴重なもので何でも県文化財に指定されているという逸品だ。
余談だが、近くには世界チャンピオンを2人(畑中清詞と薬師寺保栄)も輩出した
松田ボクシングジムというのもある。興味のある人はぜひ訪れてみたらいい。
写真は月待供養碑と思われる石碑
秘仏として名高い性神信仰というのは性器信仰ではなく子孫繁栄を願う人々の
切々たる気持ちの現れであるという。天下の奇祭といわれる田県神社の祭りは
全国的に有名だが名古屋市内にも性器を祀るお堂があることを知る人は少ない。
金山橋の近く、俗に“沢の観音さん”で知られる妙安寺の門前にそれはある。
堂前に「道祖金勢大明神」のノボリが風にはためいている、はずなのに行った時は
何故か見当たらなかった。堅く閉ざされた扉の穴から薄暗い堂内をうかがうと
地蔵菩薩の後ろに有に1mはあろうかという道祖金勢大明神と刻まれた男根が
倫々と2本おっ立っている(別に他意はない)。道祖神は本来中国の道の神で村境に立って
悪疫の侵入を防ぎ、旅人の道中安全を守る神とされている。普通は男女双神像が多く、
男性性器を道祖神とする例は非常に珍しいとのこと。寺の西を堀川が流れ、
その眺望の良さから名古屋三景のひとつに数えられた妙安寺。
この立派な御神体は当初弁天堂に祀られていた。しかし祈願に訪れる男女で
その跡を絶たずといわれ、男女の異様な熱気と辺りをはばかる異体ということで
秘仏扱いにされ門前のお堂に閉じ込められてしまったという。
写真はてなもんや三度笠に出てくるような秘仏堂の全景
「金山」駅というと大相撲ファンだった私はずっと昔ここにあった金山体育館のことを思い出す。
金山体育館は終戦直後、愛知県主催の国体開催に合わせて飛行機の格納庫の材料で
急遽建てられた建物だ。そしてその当時大相撲名古屋場所がここで開かれていた。
しかしこの体育館、冷房設備はもちろんなかったので設備と言えば各自持ち寄る団扇だけ。
暑い騒ぎなんていうもんじゃなく名前も名古屋場所ならぬ南洋場所とも言われていた。
1度だけ(確か小学生低学年の頃)名古屋場所を観にそこへ連れて行ってもらったが
暑いどころの騒ぎでなかった。拷問を受けるような、今だったら怒れて相撲どころの
話ではなかったのだが昔の人はとにかく我慢強かったんだな。40度を越す暑さの中で
一心不乱に応援していたのを思い出す。
写真は金山駅にある身障者用トイレだがこの階段は何んのつもりだ!
作ればいいという問題ではない
【駅での一言】
地下鉄「金山」駅の南側の3基×2カ所あるエスカレーター(長く真直ぐ伸びているので上がりはそれほどでもないが下りは少々ビビル)を上がると総合駅らしく左右に名鉄、右側にJRの改札口がある。地下鉄駅構内には案内所や定期券売り場などがあり、小規模だが地下街もあり中には喫茶店・本屋などもある。また身障者用トイレも設置されてはいるがここは問題ありと見た。駅の北側には名古屋市民会館(ここにあの金山体育館が建っていた)があり地下の連絡通路から直接中に入ることが出来る。また、地上に出ることのできるエレベーターも1基あるにはある。設備もレイアウトもまずまずで高望みしていないから及第点をあげてもいいんじゃないかな。]]>
達人への道:4
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2010-03-13T08:55:00+09:00
2013-03-08T21:41:31+09:00
2010-03-13T08:55:29+09:00
tomhana190
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地下鉄名城線「黒川」駅。病気前、M美の実家へ行く時は
この駅まで義父が迎えに来てくれたし、病気後も1人で何度も来ているので
勝手知ったるナントやら。今の私に最も重要かつ必須なエレベーターの位置やトイレの位置
その他何でも知っているから安心できる。黒川という名は堀川の上流部を指したりもするが
現在では川の名ではなく、どちらかといえば黒川本通をはじめとした地名として
主に使われている(地図で調べると黒川本通と黒川交差点以外何処にも
黒川の付く地名はなかった。何のコッチャ)ようだ。黒川の前身となる流れは
御用水と呼ばれていた。これは1663年に名古屋城の堀の水を補うため庄内川から
引き込んだ水路だった。この御用水を基として1877年、愛知県土木課長だった
黒川という人が黒川を開削した。黒川課長の故郷(岐阜県羽島郡柳津町)は3本の大河に
囲まれた輪中地帯で水害が多い地域であった。幼少期の苦い生活体験が
彼を愛知県土木課へ進ませたのであろう。県令(現在の知事)は名古屋城建設時の堀川
(城と熱田の港を南北に結ぶ)の改修を彼に命じた。
写真は黒川の今の流れ。ほとんど流れてなくて淀んでる。
彼は単なる改修工事ではない大計画を考える。堀川と庄内川を結ぶ運河を作り
庄内川から木曽川の水を堀川へ流そうとしたのである。名古屋市北区を東西に流れる
現在の堀川はこのような計画で作られ、彼の名から当時「黒川」と呼ばれていた。
これにより犬山まで船が通行可能になり名古屋の産業は大いに発展したという。
地下鉄「黒川」駅から東へ約400m行くと道が二股に別れている。
1つは志賀本通に向かい、もう1方は三階橋に向かう。その三階橋に向かう方の道を
名古屋犬山線又は辻本通というのだが地元の人は誰もそう呼ばない。
地元の人はこの道のことをどういう訳か防衛道路と呼んできた。
恐らく戦後アメリカ軍がまだ駐留していた頃、アメリカ軍の宿舎が今の白川公園辺りにあり、
そこから米軍の将兵やら軍属がこの道を通って小牧の基地まで通ったので
そう呼ばれたようだが真偽の程は定かではない。また一部には直線で約1700mも続くこの道は
もしやの時に緊急の滑走路になる道だと信じてる人もまだまだいるようだ。
写真はいわゆる防衛道路
駅から南西へ1km弱で西来寺に着く。途中、運が良ければビックリするほどの大木
(名古屋市指定の保存樹としてもいいくらい)のある普通の民家にも出会える。
この寺は墓地をちゃんと併設してる本格派(宗派は忘れたけどね)。
境内には変な石仏や取って付けたような寶積稲荷という神社もチャッカリ鎮座してる。
庭に立って境内をながめると、他の寺院の門扉と異なり、この寺のものは
いわゆる武家門扉である。扉の上の部分に縦の桟を5本打っただけの透しとなっているので、
外を寺の中から見ることが出来るのだ。この門扉にまつわる逸話が伝わっている。
この寺は戦国時代、御深井の内の多利という所に地蔵院として開山した。
慶長年間、名古屋城築計画により田幡村の現在地に移された。達磨大師を深く敬う
尾張4代藩主吉通の厚遇を受け、達磨大師の少林寺に因んで少林山・西来寺と銘々された。
参拝して何がよかったかというと、トイレがちゃんと境内にあったこと。まさしく本格派だ。
◆西来寺の門:享保年間のことである。西来寺の首座に開田和尚というチカラ持ちの僧がいた。
名古屋城に所用があって出かけた帰り、御深井丸の庭を歩いていると庭の片隅に
門扉が捨ててあるのを見つけた。「寺には門扉がない、これを寺の門扉として持帰ることは
出来ないだろうか」と和尚は考えた。庭の番人に聞いてみると西北隅櫓(旧清洲城)の門扉が
不要になったので捨ててあるものだという。「寺に頂けないだろうか」と和尚が番人に頼んだ。
「何枚ほしい」と番人が聞く。「勿論1枚だけでよい」。番人は「2枚しかもひとりで持って
帰るならこれをやろう」と難癖を付けてきた。重い門扉はひとりで持つ事も難しい。
持上げる事さえ難儀であるのに、それを担いで寺まで持って帰ることは至難の事だ。
難題を出せばきっと諦めるだろうと番人は条件を出したのだ。
和尚は「それでは持って帰ります」と何気なくいって、門扉を軽々と持上げて
呆然としている番人を尻目に悠々と立ち去ったという。
写真は西来寺の例の門
ついでに足を伸ばし西来寺から南に200mぐらい行った黒川沿いに巨木に囲まれた神社、
多奈波太(たなばた)神社がある。ちょっと小さめの境内、しかしいかにも年季の入った
鎮守の森が境内全体を優しく包み、祈りの場に相応しい風情を醸し出している。
「尾張志」にも「田幡村にあり、今七夕の森と称して旧暦7月7日の例祭には灯をかかげて
緒人参詣す」とあり、古書にも「例祭7月7日の夕は燈を掲げて諸人参詣す」とあり、
大正頃までは七夕の短冊飾りも盛大でゲイコ達の祈願で雑踏したという。
主祭神は天棚機姫命で、江戸時代は東照宮の管轄で一般人は柵外よりの参詣で
例祭日だけ境内参拝を許されたという話が伝わっている。また七夕にまつわる神社といえば
西区・小田井にある星神社とこの神社、ふたつの神社を結ぶ伝説も残っている。
◆七夕伝説:昔、小田井村の星神社の近くに若者が住んでいた。
若者は田幡村の娘と七夕の夜に出会い、その後も度々会うようになった。
そして翌年の七夕の日にも会う約束をしていた。しかし村は大雨による洪水で
とても行ける状況ではない。「約束は守らなければ、きっと娘は待っている」と
若者は必死で濁流の庄内川を泳いで娘の待つ田幡村に行こうとした。
しかし水かさは増すばかり、とうとう若者は川の濁流に飲み込まれてしまった。
娘は約束を破られたんだと思ったが、そんな天気のこともあって
来られなかったのだと思い、毎日この多奈波太神社で若者を待っていた。
しかし、娘の耳に入ってきたのは枇杷島に若い男の水死体が上がったという話だった。
娘はその話を聞くと、そのまま庄内川に身を投げた。今でも田幡村の人達だけは
牽牛星は小田井村の若者、織女星は田幡村の娘なのだと思っているそうだ。
一途の恋もいいんだがやっぱり無茶はいかんな。男も引くべき時は
引かなければいけないと小田井村の無謀な若者に時を越えて教えられた気がした。
写真は多奈波太神社の境内で見つけた可愛いグッズ
これまでが駅の南の方の話だったが、北の方にも面白い神社がある。
駅から北に400m程行くと国道41号線から1本入った、まさにエアーポケットみたいな
閑静なエリアに綿神社という神社がある。この神社の一番のウリは全長150mはあろうかという
真直ぐに伸びた参道の存在だ。こんなに長い参道の入口から霞んで見える拝殿、
絵も言えぬ感覚なんだな。私もたくさんの神社を拝見してきたが、こんなに長くて立派な参道は
見たことがない。一度は見る価値ありと言ってもいいじゃないかな。
余談だが、ここの狛犬はトボケタ顔して明治41年奉納の銘が刻んである。
◆綿神社:綿とは海(わた)の別字として用いられるもので綿神社=海神社だといってもいい。
ということはここら辺りは海だったということになる。この神社の起源は古く、
弥生人であるアヅミ族がココに来た時が起源といわれている。ここら辺りの志賀という地名も
九州の北、博多湾入口にある志賀島から付けたといわれている。
だから一言で言えば、アヅミの根拠地の志賀島にある志賀海神社とゴクゴク近い
親戚のような神社だといえる。まぁ記録としては平安時代初期の年中行事などを記した
「延喜式」に登場したのが初見だが。その後は荒れ果ててしまうのだが戦国時代、
現在の志賀公園に屋敷を構えた織田家の家老平手正秀が社殿を再興し、鏡と手彫りの
狛犬(当然残っていない)を奉納してあるお祈りを一生懸命したと伝わっている。
写真は一度は訪れてもらいたい参道
もうひとつ、駅から北東に500m程行った区画整理も済んでいない旧市街地のようなエリアに
児子八幡社という神社が残されている。この神社、境内もそんなに広くないし、
拝殿が立派でもないし、パッと見はゴクゴク普通の神社と変わらない。
しかし私が訪れた秋の日の朝、7時前だというのに近所の年寄り達が集まって
境内の清掃に精を出していた。この光景を身の引き締まる思いで見ていた私が
参拝を済ませ拝殿横を何気なく見た時、幸運の女神が微笑んだみたいだ。
そこには見るからに古そうな狛犬がいた。近寄って台座を調べると明治36年奉納という
文字がクッキリと彫ってあった。ということはこれまで100体以上も見てきた中で
一番古い狛犬ということになる。余談だが、世紀の発見も案外何でもないこと。
見つけた当初は「フンン」と次の目的地のことを考えていた気がする。
◆名古屋の狛犬:これまでに狛犬を探して多くの神社にお参りしてきた。
結果はというと、当然行った神社の規模によっては影もカタチもないところもあるし、
その反対に最高で3種類の狛犬がいるところまで千差万別だった。
ちなみに名古屋市内でどのくらい神社があり狛犬がいるのか。こんなバカみたいのことを
調べる人はいないと思うが私はあえて調べてみた。神社の規模によっては
地図に載らない祠のようなものもあるし、はっきりとはしないのだが
アトラス社の1/8700の地図で神社マークのある箇所を数えたら
名古屋市内に247箇所もあった。一番多かったのが中川区の43箇所。
一番少なかったのが昭和区の7箇所。地図に載っていないのも合わせると
最低でもそれの約3倍の700箇所ぐらいはあるんじゃないだろうか。
しかし全部が全部行ける訳でもない。例えば名東区と天白区にまたがって広がる
牧野ケ池緑地の奥の方、五合下池のそばにある神社は今の私にはどうコロンでも
行けそうにない。それと聞くところによるとあんなに広大な境内を持つ由緒ある熱田神宮ですら
何故か狛犬が1匹もいないそうだし、神社に行って狛犬にお目にかかるというのは
まさしくウンだけなんだという気もする。1神社に0匹から3匹いるとして、
それが約700箇所あるとする。私のこれまでの経験から独断の方程式で計算すると
1.2×700=840種類いるということになる。ここで話を複雑にして申し訳ないが、
狛犬は神社だけの専売特許ではない。数は少ないんだが寺院にもいる場合がある。
寺の数は余りに膨大で数える気になれない(ちなみに東区の場合、神社が9箇所に対して
寺院が24箇所もある)が、これまでの経験から判断して名古屋市内の寺院にいる狛犬は
多く見積っても50〜60匹(これを探すのが一番タイヘン)は下らないと思うので、
締めて合計900種類以上の狛犬が名古屋市内のドコカシコにいることになる。
写真は古さでは名古屋1・2番を競う狛犬
【駅での一言】
地下鉄「黒川」駅にはエレベーター・障害者用トイレや目の不自由な人のための誘導チャイムなど交通弱者に対する設備が比較的早くから整備されているという話だがエスカレーターは1基片側だけがホームにあるのみ。しかし定期券発行所もあるし、何よりも交通局直営店Do!黒川(要は売店)がホーム上にあるのでこれはこれで便利なんだな。]]>
達人への道:6
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2010-03-13T08:47:00+09:00
2010-03-13T08:49:09+09:00
2010-03-13T08:48:01+09:00
tomhana190
未分類
前回のビートルズ特集では私の意図に反して該当する曲の音源がなくて、
何とも情けない世界しか展開できなくなってしまった(反省してます)。
そこで反省をカタチにするべく第2回も私の得意な分野である音楽特集でいきます。
それも私の一番思い入れの強いブルースで。
世の中にはブルースを歌っている「ブルースマン」と呼ばれるシンガーはアマタいる。
黒人もいれば、白人もいる。戦前活躍した人もいれば、もちろん戦後の人もいる。
ここで私は戦後のブルースの名曲とそれを歌った黒人のブルースマンを
第1弾として発表、そして第2弾として白人が歌ったものを発表しようと思う。
ここで断っておくけど、ブルースギターだけのインストはこの企画からは外すことにした。
やっぱりブルースの名曲は人間に歌われてこそ名曲だと思うんだ。
それに上手に弾けるけどブルースの歌は歌わないという人はここでいうブルースマンとは
私は呼ばない。ブルースの歌を歌ってこそ、真のブルースマンと呼ぶに相応しいんだな。
突然ですが、夢の「ブルースの名曲」第1弾の黒人編の結果発表とまいろうか。
こういうことはウダウダ言うよりも聞いてもらった方が判るというもの。
曲名、それを歌ったブルースマン、それを選んだ私の思いの順に載せてある。
ところで、このベストテンの中に何曲あなたが知っているブルースがあったかな。
これを聞くと私の30年以上にわたってブルースに係わってきた日々のことも
昨日のことのように思い出す。青春のほんの数ページのことだけどもね。
結・果・発・表!
第10位:My Time After While
BUDDY GUY
私にとっての唯一メモリアルブルースがコレ、シカゴブルースの流れを汲むと言ってもどうってことないスローブルースだが。ブルースシンガーとしてはどう考えてもB級な彼がこの栄えあるベストテンに入った理由はひとえにそういうことにある。こう見えて私も人の子、思い出はいつまでも大事にとっておきたい。
第9位:The forecast
ROBERT CRAY
斜陽の世界であるブルース界では何十年ぶりかの新人だった彼もとうの昔に50歳を過ぎた。生温いブルースしか歌えなくなった若いヤツ等の中にあって彼の小節の効いたブルースはホンモノだ。あれよあれよとブルース界の頂点に駆け登ると思っていたら今でも先人の影を踏みながら悶々としている。ナントももったいない限り、尚いっそうの奮起を期待したい。
第8位:Slow Down
KEB' MO'
サイドギター的にず〜っとリズムを刻む腰のある単弦ギターの音が新しさを感じさせる。また、1番2番3番と微妙にコード進行が違っているところも何か新しい。この曲、名曲とは言い難いがスマッシュヒットには充分入ると思っている。余談だが、この曲は我がGOBでも取り上げている。と言ってもあの単弦ギターの音を出せるYクンとブルースハープの広瀬君がいなかったら日の目は見なかっただろうな。
第7位:I'll Play The Blues For You
ALBERT KING
ベテランらしい落ち着いた入り方、ドラムの叩き方がオシャレであくまで抑揚を抑えた大人のブルースを歌っている。途中語りもあって、まさに映画のワンシーンのようだ。いわゆるアルバートにとってこの歌はオハコ18番だ。彼の弾くギターの音色が変わっているのは右利き用ギターを左利きの彼はそのまま弾いている。コードのカタチも違えば何から何まで違う。唯一いい点は親指でチョ−キングするので普通のチョ−キングよりも大胆にできること。まさにこの曲のように。
第6位:Hoochie Coochie Man
MUDDY WATERS
ぼそぼそとギター片手に歌っていた初期のブルース界からエレキギターを引っさげて現れたブルースの世界一番のヒットメーカー、それが彼。そしてシカゴブルースを背負って立つ彼の後からはたくさんの黒人ブルースマンが雨後のタケノコのように出てきた。そればかりか白人の若者の心にもしっかりブルースを焼け付けていった。彼がいなかったら今の音楽シーンも変わったものになっていたかもしれない。その証拠にあのローリングストーンズというロックバンドの名前も彼の持ち歌からきていると言う話は有名である。
第5位:Red House
JIMI HENDRIX
本国アメリカでは日の目を見れず、イギリスに渡って彗星のごとく現れそして消えていった彼。その頃には珍しいベースとドラムと彼の3人編成のバンド。それも彼を除く2人は才能のカケラもないただの白人の若者。サイケデリックな彼の人生は案の定、薬漬けの人生でもあった。そんな彼のギタースタイルも変わっていた。ギターを背中に廻して弾いたり、歯で弾いたり、はたまた弾いているギターを燃やしたりとイロモノプレイヤーと見られていた。しかし、彼のギタープレイはビートルズの歌同様に今聞いても全然色褪せていない。イロモノプレイヤーと言われた彼のブルースは本国アメリカのブルースマンもマッツァオなホンモノのブルースだった。
第4位:Dust My Broom
ELMORE JAMES
偉大なるワンパターンというのは何もデザインの世界だけの専売特許ではない。彼の歌うブルースはその名もずばりワンパターンブルース。タイトルがどんなに変わっていても、出だしはいつものボトルネックのあの音ジャジャジャ・ジャジャジャ・ジャジャジャ・ジャジャジャ・ジャジャン。それにかぶさる高音の彼のダミ声を聞くと反射的に「エルモアだな」っと安心してしまう。上手さも情緒もヘッタクレもないブルースだがあの頃の空気を今でも運んできてくれる、タイムマシーンのようなブルースでもある。
ベストスリーに入る前に惜しくも次点の曲:One More Mile
JAMES COTTON
一芸に秀でた人はどんな世界にもいるもんで、ブルースの世界にもちゃっかりいた。スローブルースを歌わせても全然サマにならなかったドンクサイ彼が人が変わったようにイキイキ歌っていたのがこの曲のようなブギ。LP全曲がブギ、ブギ、ブギのオンパレード。終わりの方では当然耳にタコが出来てしまうが、それがまた心地いいんだな。余談だが彼は独立する前、MUDDY WATERSのバンドでブルースハープを吹いていたという。
ここから栄えあるベストスリー!第3位:I'm Leavin You
HOWLIN' WOLF
あのMUDDY WATERSやBB KINGの偉大な影に隠れて彼のことを知っている人はほとんどいないのかもしれない。しかし、有名でないということはそのブルースが詰まらないこととは繋がらない。彼の歌うブルースは流行りとかスタりといったような世界を超越してブルースの王道であるシャウト、シャウトの連続、悲惨な人生を乗り越えようとする黒人達の背中を暖かく後押しするようなブルース。また、器用でない彼のブルースからは1人の黒人の長くて辛い人生も垣間見えてきた。「カッコいい」とか「素敵だな」なんていう女子供の陳腐な響きをシャットアウトする、それが彼のブルース。余談だが、我がGOBのライブでのオープニングの曲は誰が何と言おうが私が歌うこの曲なんだな。
惜しくも第2位:Can't Trust Your Neighbor
FREDDIE KING
彼はレオン・ラッセルのシェルターレコードに移籍してからホントの意味での時代を先取りする画期的なブルースを歌い始めた。それは決まりごとでガチガチに固まってしまった、まさしく大多数のアメリカ人の心の中に仕舞ってあるような、いつまでも変わろうとしないオーソドックスなブルースに囚われずに、今の生きた空気を、日々変化する新鮮な空気を吹き込むこと。BB KINGのようなオーソドックスなブルース至上主義者からは異端と思われようとも、彼は誰もやらないことに情熱を傾けていった。そんな彼も惜しくも道半ばで帰らぬ人となってしまったが。そのあと天下を取ったようなBBやクラプトンのブルースからは今の時代をちゃんと生きている、そんなブルースは私には聞こえてこないんだな。
これぞブルースの名曲第1位:Sweet Sixteen
JUNIOR WELLS
才能のある人はみんな長生きが出来ないみたいだ。彼ももうこの世にはいない。彼は単なるブルースハープ奏者でもなければブルースシンガーでもない。シカゴブルースを不動の地位に押し上げた中興の祖だ。彼の歌を聞くと何故かジェームス・ブラウンの顔が浮かんでくる。生のライブはとうとう見れなかったがピタッと決まったステージが目に浮かんでくる。この曲もオーソドックスなブルースからはかけ離れているが彼が歌うとゴクゴク普通のブルースのように聞こえてくるから不思議だ。演技とは全く正反対の長年培ってきたブルースへの思いが彼をしてブルースの牧師のような雰囲気を自然に醸し出すみたいだ。ギターがシャシャリ出る訳でもなく、嫌味なほど技量に溺れたハープを聞くでもなく、タイトなリズムの中を歌がギターがハープがブルースをカタチ作っていくホンモノのブルースライブ。彼のライブは数少ないホンモノだった。最後に一言「一度せいいから彼のホンモノのライブを見たかった」というのが偽らざる思い。
次回はブルースの名曲(白人編)です。乞うご期待!]]>
達人への道:8
http://tomhana191.exblog.jp/12300059/
2010-03-13T08:38:00+09:00
2013-03-08T21:23:22+09:00
2010-03-13T08:38:19+09:00
tomhana190
未分類
戦前の昭和12年制作の地図を見ると池下駅の北、今の愛知厚生年金会館の
建っている辺りは淑徳高等女学校と市電の車庫になっていた。
またそれ以前、明治24年の地図を見るとその付近には何と大きな池があった。
この池、東西118間、南北60間ほどの大きさで蝮ヶ池と呼ばれていたが、大正11年頃に
埋め立てられたという。池下という地名はどうもこの蝮ヶ池の下という意味らしい。
明治38年、中区に開校した淑徳女学校は昭和3年にこの池下の地に移転し、
戦後の昭和34年に星ヶ丘へ移るまでのあいだココ池下が本拠であった。
また池下駅の東に「堀割(ほりわり)町」よいう名が残っているが、これはココにあった
蝮ヶ池から本山の猫ヶ洞池に水を流すためのトンネルを掘ったことからできた地名。
残念ながらこのトンネルはうまくいかず途中で中止されて跡形もなくなってしまったが。
(写真:池下駅の直ぐ傍にあった三喜神社)
地下鉄「池下」駅周辺には蝮ヶ池という大きな溜池が大正時代まで残っていた。
当時この蝮ヶ池(名前はこのあたりに蝮(まむし)が多かったことに由来するようだ)は
景色もよく人々の遊興の地として賑わっていた。そのことは朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」にも
ちゃんと記載されている。1660年頃、蝮ヶ池から引いた農業用水を使って名古屋新田という
新田が開発された。名古屋新田は北は北区大曽根から南は瑞穂区井戸田までの
大きな新田で総面積290haもあったという。駅から300m程北に行った所にある
蝮ヶ池八幡宮(階段を登った丘の上にある。本殿はどうということなかったが、
大正10年奉納の狛犬が立派だった。さしずめ名だたる名工の作か)は高見町の辺りに
屋敷を構えていた名古屋新田開発の大庄屋・兼松源蔵が蝮ヶ池から用水路を
引く際に建てたとされ、また蝮ヶ池の底だった一角(厚生年金会館の北側)には
可愛い蝮ヶ池竜神も祀られている。(写真:蝮ヶ池八幡宮にあった狛犬)
余談だが、蝮ヶ池八幡宮の参道のすぐ横に何故かPL教団がある。
なんか場違いのような気もしたが私はPL教団のことは何にも知らないときている。
せいぜい高校野球の常連校でプロ野球でも一大勢力を誇っているということぐらい。
早速HPで調べてみると、信徒数118万人を誇るPL教団は正式名称を
パーフェクト・リバティー教団といい、1924年ひとのみち教団という名で立教した。
すぐ当時の政府から弾圧を受け解散。戦後PL教団として再度立教、現在は第2代教祖の
長男である現教主・御木貴日止(みきたかひと)師のもと布教が展開されている。
教団の特色としては「PL21ヶ条の処世訓(おおしえ)」がその基本教義となる。
ひとのみち教団から続く「人としての生き方・正しいあり方」を述べた、
わかりやすくためになる処世訓で、いわく「人の一生は自己の表現(芸術活動)であり、
この自己表現が神の意志にかなうよう、自己の鍛練に努めねばならない。
さすれば、真の自由に生きることが可能になる」という立派な教えだが、
皆さん判ったかな。(写真:いわゆるPL教団ビル)
北は方角が悪いとばかりに「池下」駅から広小路通を南に渡り坂の町に出る。
ここら辺りは昔から月見で有名な場所だとみえ高針道から東に向って登ってくる
月を描いた絵が多く残されている。しかし今の町名は春岡町、何の有り難みもない。
しばらく坂を登ると門構えの立派なお寺に出る。地元の人からはあの一畑山薬師寺の
名古屋別院として有名なお寺なのだ。昔の医療が発達していない時代、
病気は重大な関心事だった。お寺で言えば薬師寺、神社でいうと出雲系の
少彦名命(スクナヒコナノミコト:後の童話の一寸法師のモデル)を祭る神社は
病気に関係があり全国に数多くあるという。まぁパッとしない薬師寺を辞し、
東に400mほど行くと丸山神明社(今でも毎月1と6の日に境内で野菜市が開かれている。
取材に訪れた日もやっていたのだ)がある。この辺り東部丘陵の一番西側で
南に広がる高台はかつて丸山と呼ばれ、昔は丸山村と呼ばれていた。
この神社はいわゆる農耕の神様を祀ったもので、鳥居は代表的な神明鳥居と
呼ばれるものだった。そして、この神社の前の小道が実は四観音道と呼ばれた古道なのだ。
今でこそ気付く人も稀なこの道は南の笠寺観音と北の竜泉寺を結ぶ幹線道路で
当時のメインストリートだった。(写真:丸山神明社の全景)
◆一畑山薬師寺:話によると、山陰地方の一畑山というところに薬師如来を祀った
古びた寺があった。戦時中、20才の青年がその辺りに疎開していた。
その青年が薬師如来に参拝していると薬師如来が体の中に入り神通力を得たという。
戦後、名古屋に帰省し、そこで占いや身の上相談をしているうちに信者が増え、
ついには岡崎に私財を投げ打って7万坪の土地を買い薬師寺を建立した。
それがテレビでばんばんコマーシャルを流し、近頃は境内の一角から
お告げによって温泉も出てきたといい、温泉に入れるお寺として
評判の高い一畑山薬師寺なのだ。(写真:一畑山薬師寺名古屋別院)
薬師寺を出て丸山神明社の方に向かった道すがら、天理教名京大教会という
大きな和風建造物に出会った。まぁ、こんなこと言っちゃぁナンダが広小路通を挟んで
新興宗教が競い合ってる格好にも見える。信徒数190万人を誇る天理教は
裕福な農民であった中山善兵衛の妻・中山みきが開祖の新興宗教である。
みきが41歳の時、神懸り状態になり真理を広く人民に流布せんと宗教活動に入った。
神託はみきの口からだけでなく「おふでさき」と呼ばれる自動書記
(自分の意思にかかわらず勝手に手が動いて文字を書くこと)でも行なわれた。
立教後しばらくは貧困の生活を余儀なくされたようだが、明治期には近畿一円に知られる
有名な宗教になっていた。名を馳せると共に妨害も多くなり、異端の神を崇拝する
危険集団として官憲の迫害を受けた。それでも信者は増加の一途をたどり、
みきが亡くなった頃(明治後期)にはすでに「天理教信徒300万余」と表現されるまでに
大発展し、ついには一派独立を果たした。(写真:天理教名京大教会の全景 )
一派独立とは現在の法律でいうと宗教法人の認可が下りたと同義で、
国から宗教として認められたことを表わした。当時一派独立を果たすということは
現在の宗教法人認可よりもずっと条件が厳しかったのでその頃既に天理教は
普通の宗教として認められていたといえるのではないだろうか。
また天理教は既成宗教がやってこなかった海外布教にも力を入れ、
日本から海外に出たおそらく初めての宗教だといわれている。
今でも海外に多くの信者を持ち、神道系の独立宗派では最大規模といえるだろう。
それにしても、この教団の教えはきわめてシンプルでわかりやすく、
また典型的な現世利益追求型でもある。また、中山みきの妄想力というのは
常人の域をはるかに超えているし、「ぢば」や「おふでさき」など数々の用語や
しきたりはオリジナリティに富んでいて好感も持てる。しかもこの開祖は思想だけでなく
自ら施しの精神を実践したところがタダモノではないと思う。
(写真:今の四観音道は単なる路地の細道)
ここ池下には若い人に人気な飲食店がある。フレンチでありながら何故かアンティック・
オルゴールが流れる店「赤い靴」、牛モツエキス入り八丁味噌のタレがかかった味噌串カツ
(1皿350円)が自慢の「當り屋本店」、また古川美術館の少し南側を歩くと懐石料理、
和食、イタリア料理、フランス料理…と見境のないぐらいに乱立しているその全てが
豪華な宝石を身にまとった下品な女社長で有名な「よし川グループ」もある
(どの店も行ったことないが)。しかし私にとって思い出深い店といえば
「グリルプランセス」をおいて他にない。オーソドックスなインテリアと古臭い給仕の
アンバランスが何とも言えず落ち着ける。ダマされたと思ってハンバーグステーキ(700円)を
食べてみろ。ビックリするのが当り前のような美味しさだぞ。
そうそう、もう1軒大事な店を忘れていた。駅から歩いて2分もしないとこ
(今ではヘルスビルの真ん前で恥ずかしくて入れなかっただろうな)にあった焼き鳥屋
(すいません名前は忘れました)。今から30年程前にここで高藤クンやガキちゃん達に
会わなかったら今の私はいない。この店もとっくに潰れて跡形もないんだが。
(写真:街に埋もれたグリルプランセス)
【駅での一言】
地下鉄「池下」駅はコンパクトな駅で錦通の東の突き当たりにある。でも身障者用トイレやエレベーターも設置してあり構内売店、交通局直営店もあるという豪華さだ。ここにはかつて昭和35年開業当時から藤ヶ丘開業の昭和44年まで池下車庫があって、その時の名残で現在もホームの西側に車両2編成分の留置線が残っている。現在も高畑行き5:30発の一番電車の内の1本がこの駅始発となる。ホームが比較的地上に近いため西改札口は地下ではなく地上にあるという珍しさだ。]]>
名古屋巡礼記:60
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2010-03-13T08:28:00+09:00
2013-03-08T21:05:55+09:00
2010-03-13T08:28:10+09:00
tomhana190
未分類
しかし、交差点を1つ間違えたため思わぬところに出るはめになってしまった。
と思っていたら「柏木神社→」という看板が目に止った。間違えたM美、これ幸とばかりに
「そこ、行こう」と言うじゃない。看板と地図を頼りに行くとそれらしいものが見えてきた。
しかし、うさん臭い。(うさん臭い1:鳥居がない。うさん臭い2:神社らしくない。
うさん臭い3:新興宗教らしい香りもする)てな訳でM美に見に行ってもらうと
「間違いなく神社だ」と自信を持って帰ってきた。さっそく近づいて行くと変な門が
立ちはだかっている。気にせず中に入って行くと、あるある舞台がある。
その奥に拝殿と本殿があるのだがまずまず。この柏木神社(水口町北脇)HPによると
「もともとは若宮大明神などと称し、この地域の惣守で、領域の武士や庶民の信仰を集めた。
なお、中世の楼門は安土城築城時に總見寺に持ち去られたと伝える」との話があるだけ。
なんとも尻切れトンボのような中途半端なお参りになってしまった。
ここで私が掴んでいる水口城の話からしていこう。
城下町としての水口は豊臣秀吉が1585年水口岡山城を築かせたのに始まる。
しかしこの城は関ケ原の合戦で落城し、この地は徳川氏の直轄地となる。
水口城は徳川家光の上洛に合わせて小堀遠州が築いた城で、以来、水口藩2万5千石の
加藤氏の居城として栄えた。加藤氏は本丸にある御殿(将軍の宿舎用)は使用せず、
二の丸に御殿を建て居住していた。湧水を利用した美しい外堀があることから、
碧水城(へきすい)の別名もある、とここまで。という訳で水口の細い通りをぬけて
城跡に近づいていった。運よく隣の敷地に駐車場(誰が何のために駐車場にしているのかは
判らずじまい)があるのを発見。そこに車を止め、急いで城跡に登るとそこは高校のグランド。
風情もヘッタクレもないところ。水口城復元といってもそれはサギみたいな
ほんの一部だけ。あとはこの通りなんにもない。
帰ってからHPを調べていたら水口城復元について面白い記事があったので、
この際これも載せておこう。それによると「昭和47年に滋賀県の史跡に指定され、
現在水口城出丸に二階櫓が復元されている。しかし、出丸にはもともとこんな櫓はなっかた。
その証拠に、櫓内の水口城資料館にある3000万円掛かったという復元模型にも、
ちゃんと平櫓がある。元の位置に石垣の櫓台が現存するんだから、同じ復元するのなら、
旧態通りに復元して欲しかったなぁ〜」とあった。水口城を愛するあまりの失態だと思うが、
貴重な文化遺産を後世に伝える場がこのようなことやっているようじゃ先が思いやられる。
まぁ、目くじら立てても仕方がないので次へと向かう。ホントはここから1号線に戻って
真直ぐ名古屋に戻る予定だったのだが、ここまで終わってまだ午前中の11時半。
まだまだたっぷり時間はある。という訳で予定外の三重県の神社を
訪ねる旅に引き続いて行ったのね。
水口から国道307号線を信楽方面に向かう。信楽市街地を過ぎてから
国道422号線に代わって伊賀上野方面に向かう。途中、伊賀信楽線という車1台が通るのが
やっとという県道を東に向かう。峠を越して開けたところに出た、それが阿山町だった。
その槙山地区に古い神社があることをM美が調べていた。
しかし、私の持っている滋賀県広域詳細道路地図(1/30000)にはあると思われるところに
神社を示す鳥居マークがないのだ。直接現地に行って探すしかない。
といっても開けたところならいざ知らず、槙山地区は山あいの地区だ。
1本それらしい道が見つかったんだが看板はないし人影もない。
民家まで行って聞いてくるかと思ったけど、反対に疑われそうでやぶ蛇になる感じがした。
「取り敢えず、もう少し行ったら」とM美が助け舟を出してくれた。
少し行くとまた、1本それらしい道が見つかった車を止めて様子を伺っていると
M美が「これ見てん」と小さなバス停を指差した。
「神社前」という小さな文字が全てを語っていた。山あいの方を見ると
小さ鳥居も見えるではないか。ビンゴ!ここに間違いない。やっと見つけた真木山神社
(阿山町槙山)までは軽がやっとの道だったので歩いて行くことに、5分ほどして
鳥居の前に立っていた。意外と長い参道、奥は深いと見た。鳥居を3つくぐって
やっと少し開けた境内に出た。私の第一印象は「七人の侍に出てくる村みたいだな」だった。
滋賀県から続く例のものは舞台。しかし屋根が茅葺きで変っていた。
更にその屋根は何を考えているのかアワビの貝殻で飾ってあった。
そして拝殿は普通の民家のようで屋根は普通の瓦葺き。シンと静まり返った
ナントモハヤという神社だった。お参りを済まして、狛犬はいないかと見回すとイタイタ、
意外と大きな狛犬が、これまでに見たこともないような狛犬が、左右に別れているじゃない。
惜しむらくは狛犬を守るため金網がはり巡らしていたこと、これには興醒めだった。
てな訳で、今回の滋賀三重を巡礼する旅も無事済んだ。
午後4時頃、明るい内に我が家にご帰還した。チャンチャン♪
写真1:柏木神社の境内。ここまで来ると見慣れた景色だ。
写真2:世の中は広い、真木山神社にはこんな狛犬がいた。]]>
名古屋巡礼記:59
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2010-03-13T08:26:00+09:00
2013-03-08T21:00:05+09:00
2010-03-13T08:26:05+09:00
tomhana190
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この細字の甲良神社、全然チンケでチャチな神社でなかった。
鳥居をくぐって境内に入ると意外と広い。そこに真直ぐ並べられた敷石の列が続いている。
その横に灯籠もあってまさしく寺院を思わせる。滋賀県の神社にはここにあるような
相撲場を思わせる建造物が拝殿の前にどっしり構えている場合がある。
たまたま行った時は、何かの催しものがあって相撲場には折り畳みイスが並べられ、
三々五々黒ずくめの男達が集まっている。そんな男達の話声が聞こえてきた。
曰く「あの2人、誰だ」そんなことにお構いなく拝殿まで歩いて行く。
お参りを済ませ、ふと見ると本殿の横に接社みたいな拝殿がある。近づいて行くと
世にも珍しいものにカチ当たった。それは今までに1度も見たこともない
木製の狛犬が拝殿の上に鎮座していたのだった。その時の感覚といったら
「大変なものを見つけてしまった」という、さしずめ下半身が総崩れのような状態だった。
今まで一度も見たことのない木製の狛犬。何処にでもあるような神社だと思って
何気なく行ったのに、天使が囁いてくれたのか思いもよらぬ大収穫テンコ盛りの
甲良神社をあとに、次なる太字神社へと向かった。敏満寺野口線という県道を西に向かい
国道8号線に出る。国道に出たら南下する、ほどなくすると阿自岐神社口という交差点に出る。
その交差点を東に入りしばらくすると道路沿いに石灯籠がずらりと並び、それに沿って
美しい庭園が続いている。北側に神社らしきものが見えてきた。
それが探していた阿自岐神社(あじき/豊郷町安食)だ。あじきさんの愛称で親しまれている
広大な庭園を持つ神社。祭神は味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)で、
百済系の渡来人である阿自岐氏を祀ったものではないかと考えられ、ここがまさしく
阿自岐氏の邸宅跡だと伝えられている。庭園は約1500年前、日本に漢字を伝えた
王仁氏が阿自岐氏に招かれて造ったとされ、日本最古の庭園のひとつともいわれている。
そんなダイソレタ神社だとはつゆ知らず、私達しかいないことをいいことに
ヅカヅカと入って行く。ここにもまた拝殿前の例のものがあった。
ここのは寺院の楼門のような造りをしていた。それを越して拝殿前に行くと運悪く修理中で
工事用の幕で被われていた。さぞや立派な本殿の姿を見れないままお参りを済ませて
車の方に戻ろうとした時、宮司の奥さんとおぼしきオバサンが自転車に乗って帰ってきた感じ。
自転車を止めるや否や「お茶でもどうですか」と親しく声を掛けてきた。
「次がありますから」とテイよくお断りして、ホントに次の神社へと向かった。
8号線を大津方面に向かってドンドン行き、愛知川も越えて近江八幡市に入る。
しばらく行くと東川町という交差点に出る。この交差点を西に入り5km程行くと次の目的地、
苗村神社(なむら/竜王町綾戸)が道を挟んで突如現われる。
この神社、近郷一帯33カ村にわたって氏子を有し、33年に一度行われる大祭
(ちなみに前回は1982年)はことのほか有名とある。
普通の神社とは少々違っていた。本殿が道を挟んで東西に別れている。
最初に西の方からお参りすることにといって進んで行くと、とてつもなく大きな楼門
(重要文化財)が現われた。神社は鳥居と相場が決まっているのに、
ここではそんなことどうでもいいかのように圧倒的な迫力で迫ってきた。
良く見るとこの門も変っている。不格好なくらい頭でっかちなのだ。
それを協調するかのように門の下層部には壁がなくて柱と梁だけになっている。
これを見て誰でも「神社でなくて寺じゃん」という感想が一番当たってる。
こんな大きな門だからと思って境内に入ると本殿は正面に見えてこない。
なんとも不思議な感覚だ。「ま、いいか」と中に入っていくと、またあった。
例のものが、ここのは舞台のよう。また、ここには国宝があるという。
それが祭神国狭槌命(くにのさづちのみこと)を祀った西本殿である。
神仏混合時代の名残りから、境内の不動堂には明王像も安置されているという。
比較的開放された空間に建っている西本殿に対して、道路を挟んで東側にある東本殿は
鬱蒼と繁った大きな鎮守の森の中程に建っている。室町時代に建てられた東本殿
(重要文化財)はほかの建物と違って朱色に塗られ、プロポーションも他とは違っている。
まぁ普段見向きもされないような神社だが、コッチの方が神により近づけそうで
神社本来のあるべき姿を感じてしまうのは私だけか。
HPによると子供神輿の奉納と神馬10頭が古式ゆかしい恰好で参道を駆ける
勇壮な流鏑馬祭もおこなわれるという。この神社に相応しい農村のお祭りが
脈々と受け継がれている。それがまた、いいんだな。2つ分の神社をお参りして
次へと向かう。ここからは県道を乗り継いで1号線へ出る。亀山方面に向かう途中、
水口町に立ち寄ることにした。何故なら地図にあった水口城の城跡が
回りにお堀を巡らした絵に書いたような城跡だったから。
一目見ないとバチが当たるかもしれないと思ったんだな。
写真1:木製の狛犬は横から見たら、腰の辺りで繋いでいるのを発見。
写真2:苗村神社の楼門が遥か向こうに見える。]]>
GOB備忘録:21
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2010-03-13T08:17:00+09:00
2010-03-13T08:19:34+09:00
2010-03-13T08:17:46+09:00
tomhana190
未分類
「Smack Dab in the Middle」と言っても、どういう曲なのか
知っている人はほとんどいないはず。それくらいライの曲の中でも埋もれた曲だ。
このリズムのある、どちらかというと絶対ドラムが必要なこの曲を何故やろうとしたのか、
今となっては謎としかいいようがないのだが。
かれこれ30年以上も前から歌っているこの曲も脳梗塞になって以来とんと御無沙汰している。
が、いつかまた絶対に歌いたいと思っている、それこそ愛着の一曲なんだな。
そして、ライの歌で私が一番好きな曲は何といっても「Across The Borderline」だ。
この曲、ライの歌う曲にしては珍しくライ自身が作曲した曲で、
私の好きなジョン・ハイアットが共作者に名前を連ねている。
まさしく、国境を越えて旅立つ、哀愁漂う曲なんだな。
「Get Rhythm」に収録されていたAcross The Borderline
ライについての余談は、ライの歌った曲で何故かCD化されていない曲が1曲だけある。
という話だ。30年近く前、たぶん1975年前後だったと思う。
パイオニアという日本企業の宣伝のバックサウンドだけに使われた曲があった。
「Go home girl」という曲で、元歌はArthur Alexanderという黒人だったはず。
当時はLPに入れる予定もなかったというか、そのためだけにシングル盤だけの発売だった。
その後、遅蒔きながら79年に出された「Bop Till You Drop」にこの曲は運よく収録された。
それからしばらくしてまたパイオニアの宣伝のバックのためだけに
ライの「Big city」という曲が使われた。また同じくシングル盤だけの発売だった。
それ以後この曲、待てど暮せどLPどころかCDにもされていないようなんだな。
私が買ったシングル盤はいつのまにか何処かにいってしまって跡形もない。
こんなレコード、よっぽどライに惚れ込んだヤツしか持ってないはずのシロモノ。
という訳でこの曲の全体像は日本広しといえども我がGOBだけが、もっというなら、
私と雄サンの頭の中だけに大事に仕舞ってある曲だといっていいんじゃないかな。
「Bop Till You Drop」に収録されていた「Go home girl」
元歌であるArthur Alexanderの「Go home girl」
ライ・クーダーの話が終わったので次は我が愛するトム・ウェイツの話でもしようか。
前にも話したようにトム・ウェイツはどういう訳か研ちゃんに教えてもらった人なんだな。
今の人はトム・ウェイツというと個性派俳優としか見ていないと思うけど、
彼は立派なジャズ系シンガーソングライターとして私の前に現われた。
しかし、初めは数あるシンガーソングライターの内のひとりぐらいでしかなかった。
そう、その頃、まさに時代の寵児だったビートルズも既に解散していたし、
商業ベース化された見た目だけのロックからは一歩も二歩も身を引いて、
私は新たな歌を、私自身を納得させてくれるシンガーを遮二無二探していた頃。
どうした訳か、そういう意味で注目していた人達はジャンルには関係なく
自分の歌う歌は自分で作るという人達、いわゆるシンガーソングライターだった。
ジム・クローチ、ダニー・オキーフ、ランディ・ニューマン、マーク・ベノ、ブルース・コバーン、
J.J.ケールとかいった人達。数え上げればキリがないがトム・ウェイツもそんな中のひとりだった。
だから当時は彼にそんなに思い入れがなかったのか彼の日本初ライブも
ライブ会場まで行くには行ったが結局見ないで帰ってきてしまった。
ライブ会場の雰囲気が私に「これは何か違うぞ」と思わせたからという他愛もないもの。
このライブが日本での最初で最後のライブだったから、今から考えるともったいないことをした。
と、言っても今だから言えることで、当時は全然考えもしなかった。
確か1stアルバムは1973年に発売された「Closing Time」だったと記憶してる。
そして、このアルバムから初めてトムの歌「Ol' 55」をピックアップした。
まだイーグルスが取り上げるより前だったはずだと思う。
この歌は今でも時々思い出したように歌っているからかれこれ30年以上もの付き合いになる。
74年に発売された2ndアルバム「The Heart of Saturday Night」からは
ずばりタイトル曲を取り上げたが、この曲は人前で歌ったのは数えるほどしかない。
その後の「Nighthawks at the Diner」と「Foreign Affairs」からは1曲も取り上げていない。
その頃、彼の作る歌はほとんどががジャズぽかったので再現が不可能な感じが多く、
私としてもそれほど積極的じゃなかったのがホントのところだ。
「Closing Time」に収録されていた「Ol' 55」
「The Heart of Saturday Night」に収録されていた「The Heart of Saturday Night」
♪
この続きは次回へ]]>
心の曼陀羅:2
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2010-03-13T08:07:00+09:00
2010-03-13T08:08:55+09:00
2010-03-13T08:07:44+09:00
tomhana190
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茶室
その日、今尾藩に大きな事が持ち込まれたのは、その日の夕刻であった。
大藩からのそれは誠に突然であった。
そしてその申し越しは、いささかの返言の余地もない程の下達そのものの姿勢であった。
黒漆に葵金紋、紫紐を大結びにした2人担ぎの箱荷は
大きいものではなかったが、重厚そのものの外観である。
まだ暗くないというのに大きな箱提灯を提げた迎え侍のあとに続いて、
はるばる尾州名古屋から重役である若年寄がひとり、
その御共4人、それに荷担ぎの2人の計7人である。
この一行は間もなく閉門という時刻のわずか前、
藩主御殿の大門をゆっくりとくぐった。
慌ただしかった正月の諸行事がことごとく終わって、
ようやく平常に戻った城中であったが、雪降りはこれからもなおというこの頃、
日の温度も次第に落ちてゆく夕刻、この一行は到着した。
重役は城までずっと乗馬であった。
道中、雪もそれ程でなく楽であったということである。
御殿の中は大藩からの使者ということで、何か常とは違った雰囲気が感じられた。
間もなく冬の陽も沈み、それに代って御紋付高張提灯が次第に明るく浮き出てきた。
この夜、大殿と尾州重役との要談は夜更けまで及んだ。
重役が御殿を退出したのが11時を回っていた。
翌朝、邸内客室棟での重役朝食の相手は城代が務めた。
その後、再び大殿と重役とは御殿上台の松林の中にある茶室「圓月」に
場所を移して対座した。下からこの茶室までの雪は綺麗に掃き寄せられていた。
その傍にはこの地方の守り神であり、城の守り神でもあるお千代保稲荷から
分社された小さな祠がひっそりと雪に埋もれていた。
2人はこのわずかな道を白緒の草履でのぼってきた。
茶室は四畳半である。常はここは殿の茶室であり、書斎をも兼ねるようになっていた。
真ん中には炉が切られ、そこには今、炭が赤々とあり、
更にそれぞれに火桶が手許に配せられていた。
この室には余程の者でない限り入室することは許されない。
ここは珍重にも障子戸の一部が硝子張りであった。
そのため、雪の外明りを受けて尚更に明るかった。
床には赤い冬椿が一輪清楚に活かっており、
軸には華という静かな書体の一字が眺められた。
紫檀の粉が全て塗り込められているという三面の壁は
それは確かにその匂いが微かであった。
大殿は茶室着ともいえるもので艶のある綿入れ姿は気品に溢れていた。
おもむろに対座した2人はゆっくりとした表情であるが、
まだ重々しいものが幾分感じられた。
接続する水屋では接待役の茶間控えの茶職ひとりと奥女中のひとりが
御茶の準備を進めていた。御流は武家好みの小堀遠州流である。
背戸では足軽のひとりが御用控えとして控えている。
やがて茶職によって茶が室へと運ばれてきた。全て本日は略式のようである。
この突然のことは、今尾藩としてはとにかく大きくのしかかったものと言えるものであった。
ことごとく人の心情を遥かに上回る大行事として現れようとしている。
ゆっくりと茶を楽しんだ2人が、暫し沈黙のあと、殿が一言二言、口を開いた。
それに対して重役が丁寧に二度三度頭を下げた。
重役はここで殿自らのお茶のもてなしを受けたあと、即刻帰路につくこととなり、
御殿役職たちの見送りを受けて今尾城を予定の時刻に下城していった。
客退出のあとも、殿はひとりなお茶室に閉じこもった。
奥女中も足軽もこの台地から払われて、そこには老茶職がひとりが
背戸口の畳に背を丸めて控えているだけである。
「慈しむが故に最高をつくす、か」殿は静かに目を閉じたままそうひとり言した。
思えば、本日は尾州からの只、伝言のみということであったが、
もうこれは動かすことのできない大きな事態であることに於いて、
殿はとにかくいずれにしても深刻な思いであった。
まず家族親族をも併せて、早々この旨を知らさなければならない。
また藩としてもこの議を早急に持たねばなるまい。
そして更にその確とした返答を尾州へと差し向けねばならないだろう。
殿は改めてそのことを心に決めたようであった。
雪模様は遂に雪となった。大きな牡丹雪がこの室に音を立てて降りはじめた。
殿はそれでもなお動こうとはしなかった。
この事があってから11ヶ月後、
今尾藩始まって以来という豪華な華燭の宴が殿中でもたれた。
今尾藩の若殿と尾州の姫君との目出度い御祝言が、
城中城下、上げて盛大におこなわれたのであった。
思えば、そのお祝の行事が何日も何日も続いて行なわれたその当日の日、
藩主というものの孤独と心中を一番よく心得知っている家老は
上下姿に朱の着物、白扇を腰に威儀を正して御殿へとのぼっていった。
今度の受け入れ側の全責任者であることの自覚、殿の心中をも相はさんで、
彼は思わず歩きながらも目をふと閉じるといった深い思いの中に、
御殿へとゆっくりと踏み締めるようにのぼっていった。]]>
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