達人への道:15

地下鉄発掘:名城線「東別院」駅界隈

∴「尾張名古屋は城でもつ」と言われて久しいが、ここ東別院駅の界隈は「東別院」とともに
発展してきた街である。しかし、この街は縁日で有名な日泰寺のある覚王山や
商売上手な興正寺のある八事には1歩も2歩も遅れをとってしまった。
街全体に活気がなく、ここ何年も置き去りにされた寂しさが漂う街でもある。
東別院は正式名称を真宗大谷派名古屋別院といい、1690年古渡城の跡地に
一如上人によって建てられた寺院。本堂はなかなか壮大な建築物で456畳もの広さがあり、
千人以上が一度に入ることができると寺では自慢しているが、普段は手持無沙汰で
閑散としてるというのが偽らざる事実。正門から入って落ち着かない境内を左に行くと
古渡城跡の石柱が有り難みもなく隅にひっそりとと立っている。どうでもいいけど
あまりのデカさに首が痛くなってしまった。負け惜しみでなく2度と来てやるもんかと
汗を拭きながら堅く誓って寺をあとにした。
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写真:東別院は何から何までとにかく大きかった。

◆古渡城址:古渡城は現在の下茶屋公園(池の水はいったい何処から来るのだろうか?)と
東別院の辺りにあって、当時は東西140m南北100m周囲に2重の堀を巡らした
巨大な平城だったという。この城は織田信長の父・信秀が築城したのが始まりで
当時は東側を海、南側は鎌倉街道(当時の東海道みたいなもの)が通っていたという
人通りの多い場所でもあった。信秀は那古野城(現在の名古屋城の前身)を
信長に譲りこの城に移り住んだ。ここでは信長が13歳の時“織田三郎信長”の名で元服した。
その後、信秀が末森城に移り、信長も清洲城に移ったためわずか14年で廃城となったという。
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写真:不思議な下茶屋公園、池の水は茶色だった。

∴東別院の裏手から北に行くと、昔はけっこう羽振りがいいはずだったと思われる
「長栄寺」がある。このお寺で有名なのが蘿塚(ラヅカ)と呼ばれる碑。
由来書きによると俳句の道では門人でもあり、また横井也有の従僕でもあった
石原文樵という人がその恩義に報いるために也有の髪と爪をわざわざ貰って建立した。
也有が好んだツタがからませてあったことかそう呼ばれるようになったが、
現在のものは昭和初期に修復されたものでまったくの別物。要はニセモノだ。
境内には他に第2次世界大戦の戦火を逃れた樹齢300年の中区保存樹第9号の
化け銀杏がポツンと立っている。また、すぐ近くの橘公園(ここ橘町は江戸時代にあった
橘座という劇場が名の由来)にある立札に“おためし場腑分けの跡”として
「この地は旧称新屋敷といって藩士の新刀試しに供した場所であった。1821年冬
ここで名古屋最初の人体解剖が行われた。当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ60余名、
石黒済庵の執刀により東西の医書を対照して行い洋書の正確なことを知った」とある。
ちなみに杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってより50年も経った後のことである。
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写真:長栄寺の蘿塚といっても、興味のない人にはただの石。

∴道を挟んだ西側には「栄国寺」がある。そもそもこの場所は尾張藩の刑場があり
千本松原(昔、織田信長が日置神社で桶狭間合戦の勝利を祈願した。
結果、勝利を収めることができたのでそのお礼にと松林が送られたという)と呼ばれていた。
江戸時代初期には全国に発令された禁教令を受けてキリシタンの処刑が行われたという。
当初尾張藩はキリシタンに対して比較的寛容であったため特に尾張北部の成瀬氏の領内に
多くの信者がいた。しかし後に幕府の圧力を受け北部のキリシタンをはじめとした
検挙された200人余のキリシタン全員を処刑した。死者が埋葬されたという千人塚は
お寺の中でもさらに奥の方にありビルの陰となって昼間でもヒンヤリとしている
いかにもそれらしいという場所だった。
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写真:一見期待を抱かせる門ではあった。

∴ここには中区保存樹第8号の大きなツブラジイの木(何の木だか判らなかった)があるが、
この木には処刑に使う槍が立てかけられていたという言い伝えのオマケ付き。
尾張藩2代藩主徳川光友が刑場を土器野(現在の西春日井郡新川町)へ移し、
それまでの刑死者を供養するために建立したのが清涼庵であり現在の栄国寺である。
しかし、この由緒ある寺の現状を拝見して私は愕然とした。本堂ほか数多くの遺跡を
圧するかのように寺の中心に建つのはこの寺経営の松原幼稚園。
園内は案の定、子憎たらしいガキで騒然としてた。ここでも街の猫に出会った。
蛇足だがクリスチャンで作家でもある遠藤周作の著書にもこの寺は登場するそうだが
当然私は読んでないのであしからず。
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写真:昼間に訪れてもこの暗さ。何かあると思ったね。

◆栄国寺:西山浄土宗の寺である。しかし、境内には仏教とは無縁の切支丹遺跡博物館
(有料:大人100円子供50円)ほかキリスト教関連の遺跡が何故かある。
切支丹灯篭などの碑石と千人塚と呼ばれる供養塚もあり、ローマ法王庁にも
ここは記録されているという。また火災を逃れる霊験があると信じられている
「火伏(ひぶせ)の阿弥陀」として祀られる本尊は平安・鎌倉時代の仏師春日の作と伝えられ、
空襲での被災をも免れ名古屋市の重要文化財に指定されている。
またここで斬首に処された約200名の殉教者達は処刑後なんと刀の試し切りに
供されていたというオマケも付いている。
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写真:本堂の内部はこんな具合になっている。

∴今じゃそこら辺の腐ったような道となんら変わらない本町通だが、
江戸時代は名古屋城から南の熱田神宮まで延びる大幹線道路だった。
その本町通を挟んで立ち並ぶ塗籠造りの古くてボロい商家はその多くが
仏壇仏具を商う問屋で北の家具屋街と対をなしている。
中にはハエある名古屋市都市景観重要建築物に選ばれた1910年建造の
山田屋総本店の建物も現存してる。ここらは名古屋市内でも戦災にあっていない
数少ない地域で、独特の古い町並みが今でも残っている貴重な街区だ。
でもしばらくするとアンポンタンの跡継ぎが「やっぱり商売は合理化だ」とかなんとか
いっちゃって味気のない社屋に建て替えてチャンチャンということになるような気もする。
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写真:名古屋市都市景観重要建築物といっても何だな。

∴ここで吉田さんに出会った。こう言っちゃなんだが、今にも潰れそうな古ぼけた街並を
歩いていて、覗こうともなしに一軒の仏壇関係の作業場を覗いたら、
そこが吉田さんの自宅兼作業場だった。暑いのにクーラーもかけずに開けっ放しで
黙々と作業をしてた。時間がゆっくり流れていた。さらに南に向かって行くと
古渡の交差点に出る。それを越えると「古渡稲荷社」がある。江戸時代ここの脇には
鎌倉街道(別名小栗街道)が通っていたという。この神社古くは山王社と
呼ばれていたみたいで山王通り、山王橋といった地名がこの辺りに残っている。
そして人々が「お伊勢さんが祀ってある小高い所」ということから、安らぎの場として
守られてきたのが「伊勢山神明社」である。今でも伊勢山という地名は残っているが、
山とは名ばかりで家々が軒を並べたごく普通の所だった。
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写真:これが時間がゆっくり流れていた街。

e0041354_9411189.jpg【駅での一言】
この駅、作られたのが昔だったので今でもホームと改札口の間はエレベーターはないし、エスカレーターすら片側にしかない。もちろん、地上まではエレベーターもないし、エスカレーターも昇りが1基(東別院に向かう方)だけというテイタラク。しかし、いいところも少しだけある。改札を出なくてもトイレに行けること。これがあるようでないんだな。(写真は東別院に向かう方のエスカレーター降り場)
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by tomhana190 | 2006-05-25 09:44


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