歴史のオマケ:48

時代物/1

江戸の物知り:8 江戸時代は当然武家社会だったが、いくら武家の面目を
立てるためとはいえ、勝手に仇討ちすることは許されなかった。
仇討ちは主君や肉親が不法に殺害された時、家臣や血縁の者が無念を晴らすために
行なうものとされていた。しかし、ひとつの仇討ちが行なわれると、そこで殺された者の子や
縁者がまた仇討ちをするというように、殺人が繰り返されることになりかねない。

そこで幕府は喧嘩両成敗を原則としながらも、許可された仇討ちに限っては
渋々認めていたというのがホントのところのようだ。つまり、幕府が仇討ちを消極的に管理し、
許可のない言うなれば自分勝手な仇討ちに対しては不当な干渉や、本懐を遂げても
単なる市中で起きた喧嘩とみなして仇討ちした方を成敗していたという。

仇討ちをしよう思った者がとった手段はまず主君へ暇願いを出さねばならなかった。
というのも、武士は原則として24時間365日勤務とされ、仇討ちだからといって
無断で家を空けるだけで、その者は出奔者とみなされ仇討ちに関係なく
捕まって引き戻されると、切腹を命じられるほどの重罪を冒すことになった。

仇討ちを公認してもらうには、主君へ願書を出し、さらにそれを幕府へ届け出て
「公儀御帳」に記入してもらわなばならなかった。これは仇討ちの
登録台帳みたいなもので、記入されて始めて仇討ちを許可されたということ。
映画で出てくる「仇討免許状」という書面はそもそも存在せず、
あったのは公儀御帳に登録したという手続き完了の文書だけだった。

主君へお暇願いを出すと、だいたい3年間のお暇が出る。
しかし仇討ちに出たら最後、仇を討つことができなければ何年経っても
帰参することは叶わなかった。当初、仇討ちは奨励され仇討ちに出た留守の間は
妻子の暮らしは藩から保証されていた。仇討ちを果たして帰ってくると、
加増などの褒美を貰うこともあったという。

ところが、元禄年間あたりから武家の社会も様子が変ってきた。
それというのも私事のために公務を離れることが問題になってきたのだ。
その結果、仇討ちに出た者の俸禄がなくなり、残された家族が路頭に迷うことが
生じるようになってきた。また、仇討ちを遂げても帰参が許されるとは限らなくなってきた。
そのため、この頃から仇討ちは次第に減ったと言われている。

ところで、仇討ちに出ても出奔した相手を探すということは極めて困難だったという。
今は情報社会で新聞に広告を出すとか、調査会社に依頼するなど、
出奔した人を探す方法はいろいろあるが、当時頼れるものといったら
自分の足しかなかった。だから仇討ちとは見た目ほど簡単なものでなく、
その辛苦は推して知るべきものだった。

結局、仇討ちには途方もない歳月を要したが、大海の中から1匹の魚を
探すようなものだから本人にとっても気の遠くなるような
長い辛抱の歳月だったに違いない。仇討ちを果たさなければ名誉の回復はならず、
だから仇討ちをする者は命を削る思いでとにかく仇を追い続けた。
一方、追われる側も用心に用心を重ね、逃亡生活を続けていた。

討たれないための努力もさることながら、もし討手に遭遇したら
自分が生き長らえるたみに、返り討ちにする必要があった。それというのも当時、
返り討ちは名誉とされていた。井原西鶴は1687年に「武家伝来記」という
本を出版したが、この中に当人同士は何の遺恨もないのに世間の思惑から、
やむなく仇討ちする話が出てくる。また、討手の妻が手引きのため仇の妻となり、
子までなして義理と人情の板挟みになって苦しむ、という話を書いている。

また、言葉で言い表せない苦労をしても、ついに仇と巡り会うこともなく
空しく死を迎えるということもあった。やっと探し当てたと思っても、
既に仇はこの世の人ではないということもあった。仇討ちには様々な矛盾があり、
そこから悲劇も生まれたに違いない。武士の面目を立てるための仇討ちだったが、そ
の成功率は何と1%以下だったといわれている。

e0041354_875589.jpg
写真1
私が見つけた手押しポンプ第1号がこれ。
家の方から出てきて変なところに納まっていた。
以来、一生懸命探す訳でもなく血眼になって探した。
ちなみに、現役かどうかは判らなかった。
(熱田区:大瀬子町界隈
e0041354_881867.jpg
写真2
寺の手水場にごく自然にあった。
どう見ても現役だと思うのだが、どうだろう。
(昭和区:称名寺境内
e0041354_884185.jpg
写真3
このポンプは神社の境内の片隅にあった。
昔は井戸として使われていたみたいだが、
今は完全に忘れ去られていた。
(西区:浅間神社境内
e0041354_89242.jpg
写真4
ポンプについてあまり詳しくはないので
これが普通のポンプと同じかどうかは不明。
どうでもいいけど、上の錆具合と下のコンクリートの新しさが
変にイビツでオブジェかとも思ったんだな。
(東区:泉3丁目界隈
e0041354_892634.jpg
写真5
ココに出てくる井戸は一般のそこらにある井戸とは違って
「うまい水だ」と誰もが思った折り紙付きの井戸。
しかし案の定、どれも死枯して何のお役にも立っていない。
(瑞穂区:亀井水
e0041354_894927.jpg
写真6
この井戸は大須にあって、当時名水の誉れ高かった「亀井水」の井戸。
今では喫茶店の庭のデスプレイに成り下がっている。
(中区:柳下水
e0041354_810930.jpg
写真7
神社の中にあるので注連縄が張ってある。
何のことはない、井戸といっても乾燥しきっていた。
(熱田区:御井社の井戸
[PR]
by tomhana190 | 2006-05-25 08:12


<< リハビリ日記:108 歴史のオマケ:47 >>