私の読書感想:16

参勤交代とはどういうものだったのか

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《基礎知識:1》
参勤交代の人数はどうなっているのか?
秋田藩の場合、1642年の参勤人数は御供の家臣131人、医師5人、
陪臣(家臣の家来)856人、御走衆(徒の者)49人、御小人衆70人、
足軽189人、夫丸18人、御茶屋衆10人の総勢1350人、馬42頭だった。
一般に江戸時代の初めの頃は参勤交代の人数が多く、
幕府はこれを減らすように命じている。
しかし、参勤の行列はその大名の格を誇示するものであったから、なかなか減らなかった。
1676年の参勤では秋田から江戸まで御供した者226人、
仙北まで御供した者15人、5日遅れで院内から加わった者269人、
その他の日に出発した者15人で合計525人。
これに陪臣を加えるとやはり1300人くらいになるであろう。
佐竹氏は21万石であったから100石当り0.6人ほどであった。

人数の多いのは江戸時代最大の禄高100万石を有する加賀の前田家だった。
5代藩主綱紀の時にはその数4000人にものぼったという。
しかし、100石当りにすると0.4人と、妥当な数字である。
それ以後はそれほどの大行列を組むことはなく、
1802年の12代藩主の初入国の時は3500人、6代藩主の初入国の時は3000人、
1745年、6代藩主が次男を連れて帰国した時が2500人だったという。

薩摩藩では世嗣島津光久の行列人数が乗馬20騎、小小姓20人、徒の者200人、
小者・中間・足軽110人、又小者890人の合計1240人。
これに藩主島津家久の1880人を加えると3120人にのぼった。
しかし、1749年の帰国供人数は920人ほど、1765年には508人、
1790年の参勤御船立の供人数は559人になっており、
幕府の規制や経済的困窮により大幅に縮小している。
熊本藩では1645年の供人数は2720人と堂々たる行列であったが、
江戸中期1777年の供人数は546人、1812年では694人と1/4ほどに減少している。

22000石の小藩である人吉藩相良氏の場合、
1730年303人、1781年210人程度である。
ただし、100石当りにすると303人の場合1.37人になり、
小大名ほど負担は重い。
一般に10万石程度の大名行列の場合、1700年頃は280人ぐらいであり、
1万石クラスになると1615年の福江藩の37人のように少人数になることもあった。
従って、街道を通る大名の一団は150人から300人くらいが最も多かったと言われている。

歴史書籍02:元禄御畳奉行の日記
◆神坂次郎著 ◆1984年発行 ◆中公新書社 ◆定価660円

e0041354_714031.jpgバックカバーのこんな文章「尾張徳川家に250年間秘匿されてきた「鸚鵡籠中記」という希有の日記がある。筆者は御畳奉行朝日文左衛門。元禄に生きた酒好き女好きのありふれた侍だが、好奇心旺盛で無類の記録マニア。当時の世相を赤裸々に書き留めて怯むことなく27年に及ぶ。泰平の世のおかしな武士達と貧窮にあえぐ庶民、文左衛門の記述を読み解いていくと華やかなイメージと裏腹な滑稽と悲惨が渦巻く元禄の真の時代像が浮かび上がってくる」を読んでついつい買ってしまった。

その中にこんな話が載っていた。曰く「文左衛門が結婚したのは20歳の時であった。新婚当初、内気であった新妻けいも娘こんを産んだ後は手のつけられないヒステリック女房に変貌している。結婚8年目の2月、この無類のやきもち女房は城下に流行した疱瘡にかかって看病する文左衛門を悩ませている。顔と手にできた疱瘡は膿をもって熱も出てきたのか、けいは辺り構わぬ大声で「ああ痛い、痛い」とうめき声をあげる。近所の医師に診てもらったが、突然あらぬことを口走り、高い声で唄ってみたり、かと思うと気味の悪い顔つきで笑い出し、次には浄瑠璃を唸り出すという有り様。

文左衛門を悩ませたけいの疱瘡も10日ほどでよくなった。しかし平癒したからといっても顔のアバタは残る。このことがけいを更にヒステリックな女にし、病的なまでの嫉妬心を掻き立てさせるようになっていった。その頃、文左衛門には妾同様の茶の間の女、女中のれんがいる。つまり、文左衛門はひとつ屋根の下に妻と妾を同居させていたのである。悋気症のけいにしてみれば穏やかでおれる筈はない。文左衛門も見ると「ええい、お前様とという人は…」と武者ぶりつくように声を荒げ、目を吊り上げる。文左衛門にしてみればそんな鬱陶しい家に居る気はしない。友人宅を転々として深夜まで酒を飲みに回っている。

その午前様の文左衛門の帰宅を待ち構えてけいは…と、連日そんな悪循環を繰り返している。この間、めかけのれんが妊娠している。青くなった文左衛門は慌てて知り合いの医師に頼んで処置をして貰っている。文左衛門はこの悋気妻と1705年1月7日離婚する。こうして文左衛門は再び生気を蘇らせて「鸚鵡籠中記」の中を闊歩していくのだが、男というのは妙なもので今まで頭の上に覆い被さっていたけいがいなくなると、急にれんへの興味も失せてしまったのか、その後れんの名は日記に見ることはない…」まだまだ続くのだがコレくらいにしておこう。
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by tomhana190 | 2006-05-25 07:15


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