歴史のオマケ:36

お堂/2

庚申塚とは何なのか?調べてみた。それによると庚申とは干支の十干、十二支の
組み合わせのひとつで庚(かのえ)と申(さる)のこと。
60回に1度巡ってくる日や年のことをいう。中国渡来の道教に基づく暦法で
明治時代まで一般に使用され、現在でも日常生活習慣に大きな影響を及ぼしている考え方で
庚申の年は60年に1度あって、最近では1980年が庚申の年だった。
庚申信仰は道教にある三尸(さんし)説と結びついている。
三尸とは人間の体に住み、庚申の夜に天に上って閻魔様にその人の行ないの
善悪を告げるとされている。閻魔様はその報告によりその人の寿命を締める
(大きな罪の場合は300日、小さな罪の場合は3日間)という。
これを防ぐために庚申の夜、寝ないでいると三尸は天に上れず閻魔様に人の罪科を
報告できなくなると信じられていた。だから庚申の夜には身を謹んで夜明かしをすれば
長生きをすることができると信じる信仰でこれを「庚申信仰」という。

やがてこのような信仰をする人たちが集まって庚申講と呼ばれるようになり、
青面金剛など崇拝対象の前で勤行をするように変わっていった。
このような行事を庚申待(こうしんまち)といい、60日に1度の庚申待を年6回で
3年連続して計18回実施し、それと供養のために庚申塔や庚申塚を築くことが
一般に行なわれるようになった。そもそも奈良時代の末に庚申信仰が渡ってきた当時は
慎み深く教えを守っていたのだが、江戸時代には大衆化し多分に娯楽的色彩が加ったようだ。
村中の仲間が集り眠らないためには順番に物語や芸をしたり、
酒食を用意するなどして過ごした(この機会に春に始める農作業の相談も加え、
多くの村人が集ったという)。今ではほとんど行われなくなった庚申講だが
戦時中は集会を禁止されていたため、宗教上の行事としての庚申講を行なうことで
集会の代わりになっていたという話も残っている。「お話は庚申さま」という言葉から
江戸時代は村の諸々の取決め事は庚申講でまとめていたことがその言葉からも判る。

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写真1
お堂の中の石仏はさながら監獄みたいに鉄格子で守られていたのか、
それとも収監されていたのか、パッと見判らなかった。
(西区庚申塚
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写真2
こっちのお堂はまさしく座敷牢だった。
2人の石仏が「出してくれ!」と悲痛な叫び声を挙げていた。
(西区円福寺
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写真3
本来、お堂はこうでなくちゃいけない。
寺の前には文化住宅もどきの小さなお堂が並んでいた。
(北区清学寺
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写真4
このお堂を見ていたら、子供の頃テレビで見た
「てなもんや三度笠」のイントロのお堂が何故か出てきた。
(北区修善寺
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写真5
お堂と呼ぶには少々立派過ぎる佇まいのお堂。
これこそ「てなもんや三度笠」の世界そのものだ。
(中区妙安寺
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写真6
多賀大社の大鳥居の前にあったお堂。
観光客も多いというのにこのアリサマ。よく見ると賽銭箱だけはあった。
(滋賀県多賀町多賀大社前
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写真7
本殿に向かって歩いていくと参道脇にお堂はある。
次の世話役の時代に残っていられるか少々心配である。
(北区児子神社
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by tomhana190 | 2006-02-27 11:18


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