達人への道:9

地下鉄発掘:地下鉄鶴舞線「大須観音」駅界隈

地下鉄「大須観音」駅は名前からも判るように大須観音があったからこそ出来た駅。
この大須観音という寺は由来書きによると「大須観音はもともと美濃国長岡庄大須郷
(今の岐阜県羽島市大須)にあった。後醍醐天皇が勅願を下し賜い長岡庄に北野天満宮を
御造営になった。その時、天皇は能信上人に深く帰依なされ、1333年上人を
その別当職に補し、北野山真福寺寶生院という寺号を賜ったという。
その後、後村上天皇も厚く上人に帰依なされ、伽藍を建立し田地を賜い、
末長く“勅願寺となす”とのありがたい詔も下された。寺領も1万余石におよび、
伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃の6カ国内にあった真言宗寺院を末寺とした。
その後、戦国の世となり織田信長も寺領500石を寄進した。徳川家康は名古屋に城下町を
建設するにあたり、まっ先に当寺をこの地に移した。はたせるかな霊験、
日に日に新たに善男善女の参詣きびすを接し、市の一大中心として繁栄した。
人々からは“観音さま”と俗称され、真言宗智山派別格本山として今日に至っている」とのこと。
御利益のある尊い寺だということか。
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写真:大須観音の全景

名古屋城を造った狸親爺こと徳川家康は後の世の人から誉められることを2つもしている。
1つ目は金沢文庫伝来の貴重本が息子の尾張藩主・義直に贈られ、それがそっくり
名古屋城に納められた。続日本紀などの古典を含むこれらの書物は今、徳川園に隣接する
蓬左文庫にちゃんと保存されている。2つ目はそれまで岐阜の田舎にあった
真福寺の図書館(この大須文庫は平安時代の3文庫のひとつに数えられている)を
ココに移転させたこと。そもそも真福寺には古事記の日本最古の写本など貴重な文献が
伝えられていた。真福寺本とも呼ばれるこの本は数ある古事記の写本の内で
最も古くて有名な典籍である。上・中・下の3巻からなり、各巻末に寶生院の僧・賢瑜/けんゆが
書写したと署名と年齢が記されており、筆者の年齢などから1371〜2年に書写されたものと
考えられる。他には京都仁和寺と和歌山根来寺があり、こんな所に平安時代から
鎌倉時代にかけての一大図書館が隠されていたことになる。
所蔵図書は約1万5千巻、その中には古事記3帖、漢書食貨志1巻、ちょう玉集2巻、
翰林学士詩集1巻(以上国宝)、将門記(重文)が含まれている。しかし、これらを見るには
何と予約と拝観料(詳細がどこにも書いてないので幾らなのか判らない)がいるそうだ。
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写真:大須の居酒屋といったら、ここ末広屋を忘れてはいけない。

大須観音を取り上げたら西本願寺名古屋別院も取り上げない訳にはいかない。
しかしこの寺、大須観音から大須通を挟んで200mも離れていないところにあるのに
ほとんどの名古屋人は行ったことも所在も知らない変な寺である。
アイススケートで有名な名古屋スポーツセンターの裏側にひっそりと建っている。
ここの宗派である浄土真宗本願寺派は親鸞聖人の娘覚信尼が東山に聖人の木像を安置して
御影堂を開創したのが始まりで、本願寺といえばここ西本願寺を指すくらい超ビッグなところ。
だが名古屋では東本願寺である東別院の方が何故か有名である。
だからという訳でもないが私もここに来るのは今回が初めて。南側に通用門らしきものを
見つけ(ということは本堂は東に向いて建っている)、そこから入っていった。
そこはいきなり駐車場だった。そうしてゆっくり見回すと何か変だ。まず本堂が寺らしくない。
いい言い方をすれば大らかなインド的ともいえるし、悪く言えば新興宗教の本部のようでもある。
正門横に鐘釣り堂があるので寺院と判るが、それを見なければあとは謎の秘密結社の本部が
デ〜ンと構えてるという構図だ。それに本堂横には同じ軽自動車が何台も並んでいる。
ますます秘密結社だ。何かの会社かと思ってよく見たら、小さな字で西本願寺と
書いてあるではないか。急にありがた味も何もかもすっ飛んでしまった。
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写真:秘密結社みたいな西本願寺名古屋別院

現在、上前津の交差点を東西に走る幹線道路を大須通と呼んでいるが、
元々は祝い通というメデタイ名前だったという。それは徳川家康が
名古屋城築城を始めた1610年、織田信長が居城としていた清洲から城おろか
武家屋敷・神社仏閣・町屋までありとあらゆるものをここ名古屋に運んできた。
このことを通称「清洲越し」と呼んでいるが、それ以来300年が経ったという記念行事として
名古屋駅と鶴舞公園を結ぶ新しい道路が計画された。そして作られたのがこの通りなのだ。
だから、この通りの堀川を渡る橋を祝い橋(今は岩井橋)。新堀川を渡る橋を記念橋
(今でも記念橋)と呼んでいるのにはそんな深い理由があったのだ
(知らなかったという溜息が聞こえてきそう)。また、西大須の交差点を西に300m程行くと
白山神社という古ぼけた神社がある。白山神社は白山(ハクサン)信仰に基づく神社で
始まりは石川県の白山を霊峰として拝する人々の間での信仰だったのだが、
何故か愛知県には多くの白山神社が残されている。私達は意識せずに“ハクサン”神社と
呼ぶが神社で音読みをするのはことのほか珍しく、このことからも白山神社は
渡来系の方々が祀った神社ではないかと推測されているという受け売りを一言。

また、この神社から南側は低くなっていて昔はこの辺りを鶯谷と呼んでいたという。
今ではウグイスどころか雀すら見受けられなくなった下町の工場地帯といった風情なんだが。
縄文から古墳時代には海のすぐ側であり、また湧き水が出たため人々が住むのに
適した住み良い場所だったみたいだ。「尾張名所図会」によると、
白山神社境内には榎木が一株あり、それは白山神社の神木だったとある。
現在もあるかどうかは定かではないが、私が見た限り影も形もなかった気がした。
かつてこの神社の前には今じゃ時代劇でしか見ることのできない高札場があったそうだ。
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写真:白山神社にいた狛犬

昔、鶯谷と呼ばれていたこの辺りは今では名古屋人でも訪れることのめったにないという
貴重なエリア(そういう私も今回が初めて)。しかし、そんなところだからこそ
珍しいものが残されている。何でも織田信長が桶狭間の戦いへの出陣の折り、
戦勝を祈ったという大クスノキ(厳密にいうと鉄格子に囲まれたところに
木の残骸みたいのがある)が何故かあった。地元の人達から愛され守られていた割には
今の状態はハッキリいって?が付く。どうせ名古屋市の仕業だとは思うが、
人々から必要以上に隔離しておいて手厚く守っているとは言わないの。
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写真:大きな空洞がありながらかろうじて立っている「くすのきさん」

◆名古屋城下図:1868年当時を描いた古地図帳「名古屋城下図」をよく見ると、
今とは当然ながら全然違う。何が違うといって道路がまず違う。
今でこそデカイ顔してる100m道路とか上に名古屋高速が走っている市道山王通
といった大通も当時は影も形もなかった。あったのは大須本通とか裏門前町通ぐらいのもの。
違うといえば大須観音と七寺の大きさも違う。今では存在感も何もないただの七寺だが、
当時は西本願寺ともタメを張り、大須観音なんか目じゃないとばかりに
権勢を欲しいままにしていた。また、大須観音の横にあった清寿院。
尾張名古屋の3名水の一つ柳下水で有名だったが今は影も形もない。
時が経つのは時々惨いことを平気でするんだな。

もう一つ有名なものがこのエリアにはある。名古屋市の歴史を語る時、
必ずといっていいほど出てくるものがある。それは堀川に掛かった松重橋にあるの古い門
(正式名称は松重□門と言うそうだ。□は門構えの中に甲という字が入るのだが、ど
う読むのかも判らないときている)。一見、教会か何かの建物かと見間違いそうな
年季が入った外観。そもそもココは堀川と中川運河とを結ぶ水路があるところ。
そこに掛かった水門がこの建物の本来の意味。しかし、写真にダマされてはいけない。
風情のあるのは水門の上の方の建物部分だけ。下を向いたら堀川に浮いたゴミとか
生活の疲れが自然と集まってくるそんなゴミ捨て場のようなところ。
上には高速道路が我が物顔に走っている。しかも隣にはラブホテルみたいな建物が
競い合っている。何とも言い様のない不思議なエリアなんだな。
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写真:道を挟んで反対側にもある。全体で4つのビショップが建っている感じ。

名古屋の街に遊郭みたいなものが姿を表わしたのは1610年頃のこと。
この頃は名古屋築城の真っ最中であり、名古屋城の造営は幕府が全国の諸大名に命じた
天下普請であり、多くの大名や人々が日本各地からココ名古屋に集まってきた。
その工事関係者を慰めるため徳川家康が飛田町廓(錦3丁目辺りだと思う)の
設置を許可した。それがどうやら名古屋最初の遊郭らしい。この飛田町廓は
暫定的に設置されたもので名古屋城の築城が終ると風紀が乱れることを嫌った
初代尾張藩主徳川義直によってすぐにまた廃止された。これを復活させたのが
7代藩主宗春だ。1732年、今の山王橋(中区松原3丁目辺り)附近に西小路廓が置かれ。
時を経て、名古屋の遊郭が再び復活を遂げたのは1874年、大須観音に近い北野新地に
旭遊郭が設置された。そして淫売を厳しく取り締まったこともあって大繁盛したという。
しかし1923年、旭遊郭が中村へ移転したことにより芸妓小屋やこの街に根付いた
小料理屋などは姿を消した。現在の大須界隈にはかつての遊郭時代の雰囲気を
とどめているものはない。しかし表現は良くないかもしれないが楚々とした
今風の繁華街とはひと味違った猥雑な活気のある街、それが今の大須。ある意味では
この雑駁さが遊郭時代から受け継いできたこの地区の気風なのかもしれない。
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写真:こんな店があるのも大須ならでは

e0041354_17515245.jpg【駅での一言】
大須観音の直ぐ横にあるその名も「大須観音」駅という名前なのに3〜4年前まではエレベータもなく、エスカレーターは途中まででプツリと切れて思わぬ階段を歩くハメになるという年寄りにはとんでもない駅だったが、久しぶりに行ってみたらホームから地上までちゃんとエレベータがあった。と、言っても大須観音側だけの話しで、伏見通りの反対側のことは何にも考えていなかったみたいだ。(写真:大須観音側にあったエレベータも出入口)
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by TOMHANA190 | 2006-02-01 17:55


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