心の曼陀羅:3

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下天の内

「熱田宮は、どの方向になるぞ」
青葉山城に入った信長は近侍にそう尋ねた。
夕闇迫る城山の頂、殿の現れを待って篝火台に火が灯された。
「この方向に御座りまするが」
信長はゆっくりうなずくと、言われた方向に起立正視し、
何やら一言、二言、三言、そして恭しく頭を垂れた。
そして、遥か熱田宮の方向を見渡す山麓に小さな祠があることに気がついた。
「あの祠、何と申す」と近侍に向かって誰とはなしに言った。
すると突然「あれは水神を祀る伊奈波社という祠だと土地の者どもが、
そう申しておりました」と若武者がかしずいて答えた。
「うぬは、相変わらずの博識だのう」
一瞥すると、信長は何もなかったように床机に腰を下ろした。

爽やかな群青色の胴服、それに鹿の革袴、
これに真っ赤な麻の陣羽織、手には金色の軍扇が握られていた。
白い根括りで強く締め上げられた高髷、うっすらとした八の字の髭、
精悍そのものの姿は暮色の巷、篝火の明かりを受けて更に端正なものに見えた。
またその静けさは逆に何か凄まじいものを秘めた感じでもあった。
征服者としての孤独、それが思わず熱田宮へと向けさせたのであろう。

「水桶を持て」と言った。真新しい手桶に杓が添えられて運ばれてきた。
「貝を吹け」と続いて命じた。大きな戦場用法螺貝を持った士卆が現われた。
「終令の音を吹け」信長は吹き始めの合図に軍扇の手を高く上げた。
そして、自らは桶からおもむろに水を汲取り、杓水を一気に高く撒き散らした。
水玉が火の色を吸って金色に光って散った。法螺貝の音が山々に響き渡る。
敵とはいえ、その中に散った軍勢への鎮魂の水であった。
全将兵がそれに合わせて黙とうの形を取った。

彼はその儀式めいた事をひとりでやると、
無言のまま大股で床机へと戻り、これに掛けた。
掛けたまま前面に居並ぶ武将達に向かって言った。
「久しぶりの目の覚めるような奮戦、心からその労をねぎらうぞ。
この堅城も遂に我々の手中に落ちた。次の評定は帰還してからに致す」
これを受けて「心得て候」と重臣筆頭の将が力強く答えた。
今宵は酒宴を張って全将兵をゆっくりと休ませてやる事であった。
あれ程、性急過激な性格の彼も、この青葉山城に於いては
実に穏やかで泰然とした姿勢ばかりであった。
事成っての満足感がそうさせたのかも知れない。

このあと、誠にわずかな月日でもって、彼は本能寺に火滅する。
「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
思えば青葉山城にあったこの瞬間こそ、
彼の人生でそれは最も充実した時であったといえるのかもしれない。
篝火を通して、名古屋の方向をしばし黙し、
「天下統一、急がねばならぬ」と胸に言い、身を引き締めた瞬間、
目を大きく見開き口を一文字に結んで深い表情となった。
この事を悟らぬ部下はひとりとしていなかったであろう。

終席となって、晩春の宵もやがて暗く沈み、篝火も衰えはじめた。
信長は床机から静かに立上がったあと
「酒宴は明日に回せ、この夜は余ひとり、不眠でこの城を守るぞ。
よいか者ども、ひとり残らず眠りにつけ」
彼はそう言い放って、建物の内へと悠然として消えていった。
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by TOMHANA190 | 2006-02-01 16:40


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