達人への道:3

地下鉄発掘:地下鉄名城線「伝馬町」駅界隈

江戸時代、政治・文化の中心であった江戸から地方への交通の手段としての街道が整備された。
東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道がそれだ。
その中でも東海道は江戸と京都とを結ぶ日本で一番重要な街道だった。
その東海道は熱田神宮のある「宮の宿」から三重の「桑名宿」までを渡し船で結んでいた。
「宮の渡し」という名は熱田神宮の門前にあることから付いた名前で、
桑名までの距離が七里あることから「七里の渡し」とも呼ばれた。堀川と新堀川の
合流点に位置する渡船場跡は今では宮の渡し公園として整備され、
寛政3年に再建された「常夜灯」「時の鐘」もきれいに復元されている。
また、堀川沿いにはよく手入れの行き届いた松が植えられて散策路が設けられている。

◆宮の宿:熱田神宮の南一帯に開けた門前町は東海道五十三次の41番目、宮の宿。
ここは熱田神宮神領地のため年貢なし、宿高なし。家屋2,924軒(東海道宿場中3番目)。
人口12,342人(同3番目)。旅籠248軒(同1番目)。本陣2軒(赤・白)。脇本陣1軒。
問屋場1ヶ所。船会所1ヶ所(尾張藩)。ここはまた熱田神宮の所在地として
古くからこの地方の中心地であった。東海道「七里の渡し」場、脇往還佐屋街道と
美濃街道の分岐点でもあり、尾張藩の玄関口として東海道有数の規模を誇っていた。
当時ここには他を圧倒する山車があった。文明開化の波により電線が邪魔をすることで
途絶えてしまったのだが、熱田神社内の休憩所展示物にその様子を見る事ができる。
それを見れば東海道随一の賑わいだった町の往時を忍ぶことができる。
e0041354_1225966.jpg
写真は復元された宮の渡しの常夜灯

地下鉄「伝馬町」駅から南に入った1本目のそれこそ何でもない小道が
何を隠そう江戸と京都を結んだ幹線だった東海道の今の姿である。
そこから西に向かってしばらく行くと「ほうろく地蔵」というお堂がある。
その前の角が東海道と美濃街道の分岐点であり2本の道標が残されている。
北側の道標は1758年建立。欠損が激しくほとんど読取ることができないが、
南面に「北 さやみのぢ道 きそ」と刻まれている。南側の道標は1790年建立で
四面には次のように刻まれている。「東面=北 さやつしま 同 みのち道
南面=寛政二庚戌年 西面=東 江戸かいとう 北 なこやきそ道 北面=南
京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社弐丁」。ここから南に折れると
七里の渡し場があり、北へ折れる道が美濃街道(佐屋街道)という訳だ。

◆ひつまぶし:見慣れた鰻重とはまたひと味違った、とにかく鰻をとことん堪能しようという
精神にあふれた食べ方である。漢字では櫃まぶしと書く。
ひつまぶしとは鰻の蒲焼を1cm幅ほどの短冊に刻んで、オヒツの中に入れたご飯の上に
まぶした名古屋の名物料理。鰻丼、鰻重との決定的な違いはその食べ方にある。
お膳に付いてきた空のお茶碗にオヒツから鰻ご飯(何を隠そうとにかく尾頭付きとか
見た目の姿にとやかくうるさい日本人には、この料理法だとどんな鰻でも使えるから便利)
をよそう。一杯目はそのまま、二杯目は薬味のネギと海苔を乗せて、
三杯目はお茶を掛けてお茶漬けにしていただく。名古屋人の何ごとも合理的な貧乏臭さと
鰻の新しい旨さを堪能できる「ひつまぶし」をぜひ一度お試しください。
しかし「名古屋人なら一度は食べなきゃモグリだぞ」と言う割に私は一度しか食べたことがない。
e0041354_1231464.jpg
写真はほうろく地蔵堂の前にあった名もなき石仏

東海道はここ熱田から桑名までただ1カ所、海を船で乗り継ぐ方法だった。
熱田から桑名までが約7里(約28km)あったので七里の渡しとも呼ばれた。
当時、船は午前6時から午後6時まで運航しており、乗客は船着場にある船会所で
手続きをしてから乗った。当時渡し船は75隻もあり、中には40人以上乗れる
大きなものもあったようだ。熱田の海岸は浅いので干潮の時には大きな渡し船は
岸につけられず小船で岸から離れた沖にいる渡し船まで行って乗り換えたという。
その時の天気や海が満潮で水深が深い時と干潮で浅い時では
船が通るコースも違っていた。このため船に乗っている時間も2時間から6時間と様々で
普通は3時間くらいで桑名まで行けたという。船着場には船の目印にするための
常夜灯があり近くの「蔵福寺」では時の鐘をついて時間を知らせていたようだ。

◆1736年7月26日、熱田宿から桑名に渡海する船中で下総国生実(おみゆ)藩主
森川俊令(1万石)の船割を勤める生駒三郎右衛門という者が
日雇頭の出雲屋市兵衛という者を斬り殺す事件が起った。
既に桑名に到着していた森川氏からは吟味のために藩士がここ熱田に派遣されてきた。
事件が藩内であれば事後処理は比較的簡単だが、斬った相手は江戸の町人であり、
場所は参勤交代の道中であったため、各方面に報告しなければならなかった。
知らせを受けた生実藩江戸藩邸では町奉行へ留守居役が出頭して届書を提出。
その上で御用番や道中奉行にも届書を提出した。また、熱田宿が尾張藩領で
あることに気付いた留守居役は再び町奉行へ参上し、尾張徳川家へ報告が
必要かどうか問い合わせたが、これには必要なしとのことだった。
相手が御三家だといつも以上に気を遣うようだ。

さて、一時熱田宿の本陣に留め置かれていた生駒は江戸に護送されて来ることになった。
その後、道中奉行から事実関係の問合せなどがあり、10月6日に結審した。
道中奉行から生駒は乱心紛れもなき為、責任能力なしといったところで
「きっと押し込め」が命じられた。翌日、御用番にもそのことの届書を提出。
道中奉行には留守居役が世話になったことへのお礼を言上した。
後日、大阪にいる森川氏から道中奉行へお礼状と鰹節1箱(100本入り)を贈り、
同用人には金子200疋を進呈、迷惑をかけた熱田宿の船主に小判5両、
本陣へ500疋、その他の役人36人へ計2200疋(小判5両2分)、町方奉行、
船方奉行にもそれぞれ晒2疋を贈ったという記録が残っている。
e0041354_123297.jpg
写真は今の東海道の姿

織田家家臣に堀尾吉晴という武将がいた。豊臣秀吉の与力となり豊臣政権下では
中老の地位まで登った。その堀尾吉晴の叔父が堀尾方泰で、その子供を金助といった。
時は秀吉の隆盛期、小田原城を攻めの天下取りへ大詰めの頃。
堀尾吉晴にも出陣の命が下り、堀尾一族・郎党を率いて小田原へ向かう。
この時、堀尾方泰は病に臥せっていた。金助は病で戦に参陣出来ない父に代わって
戦場へ赴き武功を立てる事を望んだ。そしてこれが金助の初陣ともなった。
堀尾金助の母。名は不詳。紀州生まれだったと伝わっている。

その金助の母が我が子を熱田の裁断橋まで見送りに赴いたという。
しかし金助は傷病に倒れ1590年6月、帰らぬ人となった。
翌1591年、母は金助と別れた裁断橋を修復する。壊れかけたこの橋を修復することが
我が子金助の供養に繋がると。やがて歳月は流れ橋も再び老朽化していく。
1621年老いた母は再び私財を投げ打ち橋の修復を行おうとした。
そして修復工事の完成を見ぬまま亡くなった。裁断橋の擬宝珠には
その母の息子金助を思う言葉が刻まれていた。「天正十八年二月十八日に
小田原への御陣 堀尾金助と申す十八に なりたる子をたたせてより またふた目とも
見ざる悲しさのあまりに 今この橋をかけるなり 母の身には落涙ともなり
即身成仏したまへ 逸巖世俊(金助の法名)と 後の世のまた後まで
この書き付けを見る人は念仏申したまへや 三十三年の供養なり」。
今は裁断橋が架かっていた精進川そのものもない。川は1926年に埋められ、
裁断橋は取り壊されて「姥堂」(通称はオンバコさん)の前に
原型の1/3で復元されている。擬宝珠も複製である。この姥堂は空襲により
焼失してしまったが近代的な建物で再建されている。
e0041354_1234020.jpg
写真は姥堂にあった古い写真

この街には何故か神社仏閣が多く残っている。それも地図にも載ってないような
寺とも呼べないような住職がいるのかどうかも判らないような静かな寂れた寺が
点在している。例えば、門前に6体の地蔵が迎えてくれる「海国寺」なんかもお薦め。
寺だけではない神社も、名もないような小さな社が街のいたるところに
エアーポケットのように守られている。例えば、熱田神宮に参詣の人々のみそぎの場であった
「鈴之御前社」(鈴の宮)も残されている。今でもちゃんと現役でいるところを見ると、
この辺りにはよっぽど信心深い人々が住んでいるに違いない。
歩いていて判ったんだが、この街は他の街とは何処か違う風が吹いているようだ。
太陽は気持ちよくポカポカと当たり、時間はあくまで静かにゆったりと流れている、
そんな街だ。熱田神宮のすぐ南、なんでもない街角で人に懐いた野良猫が
何処からともなく纏わり付いてきた。何かをして欲しい訳ではなく、ただ人恋しくなったみたい。
こういう野良猫が住んでる街はきっと心休まる街に違いない。
e0041354_1235486.jpg
写真は鈴之御前社全景

その中で異彩を放つのが秋葉山「円通寺」だ。弘法大師が自から刻んだ十一面観音像
を安置して創建した名刹であり、熱田神宮の神宮寺として建立された寺院でもある。
年末12月16日に行なわれる火まつりは大護摩の火が燃え盛る中を
火防守護・諸難消滅・福徳延命などを祈願して行われる勇壮な神事であり、
白装束の行者が火を渡り一般の人も参加して無事息災を祈念して盛大に行なわれる。
また、ここは日本最古の秋葉大権現出現霊場として知られている。
そもそも秋葉信仰の祭神である秋葉山三尺坊大権現とはいかなるものか。
モノの本によると「三尺坊は信濃の人で母が観音菩薩を念じて生まれたという。
出家後阿闍梨となり、越後の国の古志郡蔵王堂(新潟県長岡市蔵王町金峯神社)
十二坊の一つである三尺坊の主となった。そこで不動法を修したところ
左右の手に不動明王の持物である剣と索を持つ相を感得し、飛行自在となり、
一匹の白狐にまたがり飛行して南下、遠州秋葉山に止まった。
その後、尾張国円通寺の大明和尚のもとで参禅し、鎮防火燭の秘法を感得し、
これによって火伏せの神としての信仰が高まった」とある。

また「火防の神・秋葉山三尺坊大権現に対する信仰は江戸期、全国的に爆発的に広がった。
特に度々大火に見舞われた江戸においては多くの講が作られ各家々の軒下には
秋葉大権現のお札が張られたという。この秋葉大権現の総元締めが遠州気田川の奥、
秋葉山頂に鎮座する秋葉山三尺坊大権現である。今でも静岡県下においては
「秋葉街道」と呼ばれる秋葉山への旧参拝道がその常夜灯とともに多く残っている。
この秋葉山三尺坊大権現も明治の悪名高き神仏分離政策により三尺坊は
袋井の可眠斎に移され、山頂の秋葉大権現は秋葉神社となってしまった」とあるが、
三尺坊はだから何なのかが判らない。境内の左側が円通寺、右側が秋葉山神殿で
火の神様が祀られている、ということは秋葉山神殿の方は寺ではなく
神社ということになるが正面には線香を焚く竜の青銅器もあり訳が判らなくなってしまった。
e0041354_1242667.jpg
写真は秋葉山で見つけた蝉の抜け殻がくっ付いていた狛犬

【駅での一言】
地下鉄「伝馬町」駅は何にもない駅、まさしく時代にオイテキボリされた駅だ。
ホームと改札口のあるフロアーとの関係は内回りホームに上がりエスカレーターが
1基あるきりであとは1ホームに1カ所階段があるだけ。改札口のあるフロアーには
普通のトイレと電話が設置してあるだけ。そこから地上へは当然のごとく急な階段が
続いてるだけ。私の話をして恐縮だが上がりはそれほどでもないが下りの階段が
思いのほか苦手。エスカレーターなんかいいからエレベーターを3基
(各ホームから改札口のあるフロアーまでの2基と改札口のあるフロアーから
地上までの1基)設置するだけで見違えるようになるんだけど無理かな。
[PR]
by tomhana190 | 2005-12-22 12:12


<< マニアへの道:5 達人への道:1 >>