名古屋見聞録:25

名古屋の地名「坂」/1

名古屋を地形で見ると3つの異なった特徴を持つ地域に分けられるという。
中央部には名古屋台地と呼ばれる広い台地があり、
これを挟んで東部には東部丘陵と呼ばれるなだらかな丘陵地が広がる。
そして西部と北部には河川が運んできた土砂が作り出した沖積平野が展開している。
そんな名古屋だが意外にも□□山町というように町名に山の字の付く所が
多いのに驚かされる。町名だけ見ると25町もあって壮漢というか、
何か名古屋市内が山だらけのように勘違いしてしまうが、現実は全然違う。

この中で10の町名は八事の周辺にある町名で独立した山とは程遠いが、
山というか丘みたいな所だから多めに見て□□山町と付けてもまあ、いいかなという所。
リストをよく見ると3つ(外山・園山・内山)は元々高い山とは関係ない所だと思うので除外。
残り12だが「ここが山なの? 山があったのかな?」という所がほとんどで、
話の持って行きようがない。山がダメなら坂ではどうだ。という訳で調べてみると、
名古屋市内に□□坂町という町名が10もあった。

内訳は千種区内に月見坂・菊坂・茶屋ヶ坂・赤坂の4カ所。
名東区内に梅森坂・香坂の2カ所。八事付近に八事石坂。吹上付近に小坂。
熱田神宮付近に神宮坂。小幡緑地付近に松坂。
この中で赤坂・香坂・小坂・松坂はどう見ても今も過去も坂があったとは
考えられないので除外。という訳でホントに坂があったと思われる所は
地下鉄「覚王山」駅付近の月見坂・菊坂、「茶屋ヶ坂」駅付近の茶屋ヶ坂、
名東区内の梅森坂と熱田神宮付近の神宮坂ぐらいのもの。

そんな名古屋にあって名古屋城を北東の角に置いた名古屋台地と
その北側に広がる矢田川の沖積平野の間には数多くの坂道を造ってきた。
最初に登場するのが名古屋城のすぐ東側、今の明和高校の西側にある坂道。
柳原通(昔は柳原街道といった)にあるこの坂、
地図には表記されていないが昔は「枳穀坂」と言った。
枳穀とは白い花の咲く「カラタチ」のこと。清楚な甘い香りが漂う花の中の坂道が枳穀坂だ。
そんなロマンチックなイメージとかけ離れた使命を江戸時代の枳穀坂は帯びていた。

今の名鉄「東大手」駅は名古屋城の東大手門を指しているが、
その昔、東大手門から坂道を下った地に名鉄「土居下」駅という駅があった。
そこには江戸時代から明治の中頃まで馬冷所があった
。馬冷所とは冷たい泉の湧き出ている池に馬を入れて休ませる所だ。
馬冷所の近くには東矢来木戸があった。この木戸はいつも固く閉ざされていた。
万一の時に藩主が城を抜け出し、木曽路に落ち延びてゆくための非常口の木戸であるからだ。
非常口を守っていたのが御土居下屋敷の同心達だ。

清楚な純白の花を咲かせるカラタチには鋭い刺がある。
枳殻坂は東大手門から土居下に下る坂。坂道の東側には
成瀬家の中屋敷と呼ばれた控地/万一の時に使用する為、おらかじめ備えておく土地があった。
その中屋敷の垣根にもカラタチが植えられていた。
坂道の両側に植えられている枳殻は何か尾張藩に重大な事件が起きた時には
柳原街道を防ぐバリケードになった。枳殻で坂道を防げば道を上がる事も下がる事もできない。
枳殻を坂道の両側に植えて防備柵としたのは藩祖義直の時であったという。

枳穀坂の東側、国道41号と出来町通が交差する所が「清水口」という交差点である。
「清水口」の口は城下への出入口のこと。
稲置街道(木曽街道)から城下へ入るには清水町を通らなければならなかったので、
清水口という訳だ。ここは名古屋の北の玄関口でもある。
かつて清水口の他に大曽根口/下街道、駿河口/飯田街道、熱田口/熱田街道、
枇杷島口/美濃街道があり、五口と呼ばれていた。
今も口がついた名前が残るのは清水口だけではないだろうか。

清水口から北へ国道41号は真っ直ぐに坂道を下ってゆくが、
かつての稲置街道は今の清水口の交差点より1本西の所にあった道がそうだ。
名古屋台地を上り降りするから急な坂道である。こ
の坂、当時は「清水の大坂」と呼ばれていた。
昔は農作物などを満載した大八車を引いて上がるのはさぞかし大変だったろう。
私の子供時分も清水口の坂は鋪装してなくてジャリが撒いてあった。
当時のバスはこんな凸凹の道を巧みに上り降りしていた。
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写真:清水口の近くにこんな落ち着いた神社があった。
坂の上にその名も「七尾天神社」といって学問の神様を祀る神社であった。
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by tomhana190 | 2010-03-09 08:40


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