心の曼陀羅:10

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美貌

「長らくの間、誠に御苦労様でございました」
奥方である藤絵は殿様に向かって改めて丁寧に御辞儀をした。
「うん、2度ほど風邪で困ったが、後は息災であったぞ、そちも大儀であった」
参勤交代で江戸詰であった吉田7万石の壮年藩主はようやく奥の書院に妻と2人だけとなって、
疲れた中にも満足げであった。殿39歳、奥方34歳、江戸城では雁の間御詰衆という
役目であった。今この部屋では大きな丸い朱塗りの行燈の灯が微かに揺らいでいるだけである。
城中城下、殿御帰還御出迎えの諸事も届こうリなく終わって、ようやく辺りに静寂がもどり、
耳を更に澄ませば、わずかに鹿威しの音があるだけであった。
花にはまだ早い春の夜であった。

「ところで、先刻西町で迎えた奥女中の中に、見知らぬ顔があったが、あれはいかがした」
この西町でというのは御国入りの殿がいよいよ吉田町内に入られ、
ちょうど西町になった頃、お駕篭が止り、お駕篭から出られた殿様が平伏す町民の前に立たれ、
出迎えの城代が殿様御無事御帰国のことを町民に知らせるという、ひとつの儀式であった。
むろん殿は無言のままで居並ぶ領民にうなずき、
町民はその健やかなお姿を拝して喜び、更に低頭するという簡単なものである。
その式の時に城側の出迎え武士の後列に控えるのが奥女中達であった。
その奥女中の中にチラッと初顔を見たというのである。ふと、合点した奥方は
「あ、さようでございました。あれは尾張の森田家からの介によりまして、
お久といって引き下りの替えとして20日前から御殿へ上がらせている者でございます。
城代ともよく計りまして素性を確かめ、それで明日お目通りさせるつもりに致しておりますが」
「なかなかの才女と見たが年は幾つだ」
「はい、18歳でございます」
「うぬ」

この新入り奥女中見習いはなるほど30名を越す女中達の中でも稀に見る美貌の持ち主であった。
それは群を抜いていた。それ故まだ上がったばかりだというのに城中ではもう噂になっている。
殿はしばらく黙って貴やかに着飾った衣装のままの妻の膝の手の辺りをじっと見つめていたが、
やがて奥方に向かって静かに言った。
「全て何事も安泰であらねばならぬ、飛び出た者は必要ないであろう。
何か事あれば女中頭よりも、そちの方が気苦労するであろう。
よいな、全て城内穏やかであるためには細事にも配慮を怠らぬことだ」
「はい」
奥方は恭しく答えた。しかし、そう答えたものの、これは困ったという様子であった。
殿の言われる事は女の感として即座に判った。
しかし、全て手筈整った今、ただその事に困ったという有り様であった。
殿は御殿の隅に設けてある朱色の鳥居を見ながら、また続けた。
「全て均等であれという事だ、人事においてもな」
「はい」

女ひとりといえども、奥女中に上げるという事は大変な事で、
容易なことではなかった。家中に仕える者である以上、奥女中といえども
厳重を必要とした。それをくぐらせた結果がこれであった。
が、せっかく殿の言い付けである。奥方は頭を深く下げて
「御意に御座いますれば、さっそくその手筈を致します。心得ましたにござりまする」
と言った。「余の意ではない。御身のためを思えばである、心得よ」
「はい」
「せっかくじゃが、何がしの物を与えて、家元へ帰してやれ、さっそくにな。
城代に申し付けてさよう計らえよ、森田には余の伝書を付ける」
「はい」
殿は脇息を軽くなぜながら2年ぶりの我が部屋を改めて懐かしく見渡した。
「疲れた、さて休むとするか」と柔らかい眼差しで奥方を見ながら言った。

翌日、例の娘は奥方と女中頭の前へ呼ばれて伝々の事柄を伝えられ、
明日、家に帰るべく申し付けられた。
その日の昼、新しい着物一揃いが彼女の前に届けられ、着てみるようにと示された。
身に余る花麗な着物は奥方のせめてもの配慮であった。
彼女はさっそくそれを身に付けたが、急に淋しさが胸を覆うのを覚えた。
何か割り切れないものが頭の中に重くあった。やがて、きちんとした
身なりとなって、女中部屋から御殿奥方館へと挨拶に上がっていった。
そうした時も重い心は誰に何を、という事ではなく、ただ訳の判らない悲しみが
体を覆うのだった。そして、その気持ちは思わず拳を堅く握りしめたくなるものだった。

翌日、小者ひとりを道中供として付けられ、すっかり旅姿となっていた。
まだ蕾の堅い桜木のある門を出て、城外すぐを流れている豊川にある渡り船に乗った。
そして豊麻神社へのお参りを済ませ、やがて吉田の城下を離れていった。
その後、この娘がどのような運命をたどったか、誰も知らない。
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by tomhana190 | 2010-03-09 07:47


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